仏教にご興味のある方は要一読。
そうで無い方も、ぜひ最後までどうぞ。
八正道(Arya-Attangika-Magga: アリヤ・アッタンギカ・マッガ:聖なる八つの道)とは:
仏陀が悟りを開いたのち最初に示した初転法輪と呼ばれる説法の一つで、涅槃に至るための正しい道または、苦から解脱するための生き方を示した八つの実践項目であり、「四諦」(苦・集・滅・道)の「道諦」に当たる教えと言われています。
ちなみに「四諦」とは:
「苦しみの原因は渇愛(つまり執着や欲望)である(集諦)」、
「それゆえに渇愛に満ちた人生の一切は苦である(苦諦)」、
「それゆえ渇愛を捨て去ることができれば苦を滅することができる(滅諦)」、
「そのための八正道である(道諦)」
という四つの教えです。
この八正道、実はいろんな解釈があるみたいです。
仏陀の最初の説法のひとつ、八正道。
実はその内容は正確には分かっておらず、後世の経典などによると「四諦」や「中道」とともに説かれたものと言われていますが、その内容や解釈なども様々なようです。
仏陀の教えはその死後も弟子たちの記憶暗唱により口伝され、仏陀その人の入滅から数百年を経てのち文章化されたと言われています。
現在私たちが目にすることのできる仏教の経典は、そんなふうに様々な人の見解や考え方、時には翻訳の都合や、時代の影響を受けて、いろんな解釈がされていると推察できます。仏陀の言葉一語一句がそのままが伝わってるとは思えない。だからこそ、「ちょっと大胆な読み解き方をしても許されるのでは」なんて思って、以前から感じていた仏教への疑問と違和感と新しい解釈を、ひとつの可能性として、ひとつの意見として、考察してみました。
この八正道の解釈をちゃんと実践したらたぶん本当に。。。
と経験的側面からも理論的側面からも確信しているので、ご興味のある方はぜひぜひ〜。
<仏教的な『正しさ』・『真理』とは>
前置き長くなりましたが、とりあえず八正道(八つの聖なる道)の『正しい』とか、『聖なる』ってどういう意味なのか、という前提からお話したいと思います。
この部分の定義が以下の解釈を成り立たせる土台になるので、大事です。
ここでいう『聖なる正しさ』とは『中道』・『無我』・『諸行無常』といった『真理』のことと定義したいと思います。『諸行無常』は私たち日本人にとって馴染みの深い概念だし特に説明はいらないと思いますが、『中道』と『無我』については以下に、それぞれ解説してみたいと思います。
<『中道』とは>
『中道』とは陰と陽の中和・統合されたところ。
素のままそのままありのまま今ただここにあるがまま、または非二元的捉え方、とも言えるかもしれません。
どんなものもニュートラルなんです。
人間の自我意識が判断を下して善・悪などの解釈を加えるでは。
だってそんな倫理とか判断とか理論とか優・劣とか全部人間の思考特有のものだからです。
だからあえて思考で良いとか悪いとか考えなければ、そこには善も悪もないんです。
だけど私たちの自我が、良いとか悪いとか判断を下すと同時に、善と悪が質的にも量的にも同じだけ発生します。
そしてその良いと悪い(陰と陽)は、常にバランス関係にあります。
物理的な作用と反作用は常に釣り合った力同士であるように。
手で壁を押せば、全く同じ力で押し返されるように。
コインがあれば、表と裏の面積は常に同じであるように。
坂道があれば、上りと下りの長さは常に同じであるように。
でも片方に強く意識が向いたら、その分だけ反対側には気が付きにくくなる。
そういうふうにできてるみたいです。
何かを悪いことって思うと、そのいい側面には気が付きづらくなるように。
誰かを好きになればなるほど、その分その人の悪い側面が目に入らなくなるように。
そういうふうにできてるみたいです。
そんな時まるで、善か悪か、陰か陽か、どちらか二者択一のように見えてしまうんです。
でも例えば輪ゴムのような輪っかを真横から見たら、直線に見えますよね。
そうするとあたかもそこには、「右はじ」と「左はじ」があるように見えますよね。
普段私たちが何かの善悪や優劣を判断してる時ってこんな感じとも言えるんじゃないでしょうか。
でもそれを真横じゃなくて上から眺めてみるとそこには円が見えますよね。
(ちなみに最近よく言われるアセンションとか次元上昇って、この平面的視点から立体的視点へのシフトによって引き起こされる意識の変容のことではないか、と勝手に愚考しております)
+・ーとかポジ・ネガとか二元的なものってみんなそんな感じだと思うんです。
右も左もないんだけど、でも視点次第でどのポイントも右にも左にもなり得る。
でもまた視点を変えるとまたニュートラルにもなり得る。
そしてそのどれもが真実だし、どれもが幻だとも言える。
どの角度から眺めるか。
どのくらいの範囲を眺めるか。
どのくらいの距離で眺めるか。
たとえていうなら、そんな感じじゃないでしょうか。
だからすべてはニュートラルなんです。
私たちの自我が良いとか悪いとかジャッジするその瞬間までは。
なので『中道』は『陰と陽の統合』と言い換えることもできると思います。
私たちの顕在意識のジャッジが生み出した、「善悪とかの二元的な差異(陰と陽)」を、統合(合体)させて中和することにより、その陰と陽の二元的『差を取り』除いていくこと、あるいは真我とつながることを通して自然と『差が取れて』いくこと、それが非二元的『差取り』なのではないでしょうか。
<四諦の新解釈>
「陰をネガティブで悪いものとして否定的に見る見方」と
「陽をポジティブで良いものとして肯定的に見る見方」、
そのどちらもが双極的・二元的であるがゆえに分離から生まれた渇愛の元であり、そして私たちの自我意識は生まれつき、生老病死などに代表される様々な物事を二元的に捉えるようにできています。
こんな捉え方を、四諦の「苦諦」と「集諦」の解釈の一つとして提案してみたいと思います。
「病は苦しくて死は悲しい」といった解釈や判断は私たちの自我意識にとって当たり前ですが、、この分離を元にした二元的で断定的な判断は、自己と真我(=『愛』)との分離を前提とした、「中道」とは相容れない想念だからです。
そしてその根源的『愛』(= 真我)からの分離が『渇愛』の正体なのではないでしょうか。
また『諸行無常』である以上、絶対的な善や悪といった価値観もまた存在し得ず常に移ろうにも関わらず、
「自我がプラスに感じることは肯定的に捉えてもっと欲しがり(三毒の煩悩のうちの「貪欲」)」、
+
「マイナスに感じることは否定的に捉えて避けようとする(三毒の煩悩のうちの「瞋恚)」
↓
このことにより「欲と執着」が生みだされ、本来は無二である真我との根本的な分離感をうみ(三毒の煩悩のうちの「無明」)、
↓
またさらに自分の一部(多くの場合それは負の部分)を否定することにより自分自身とも心理的分離感を作り出す。
それが欠乏感や渇望感になり満たされなさやさらなる渇きを生むから、またさらに欲しがり執着しさらなる苦しみを生むという循環を作り出すんですね。
それゆえに陰と陽の真理を知り中道に至ることが、苦しみを滅するための具体的な方法になる、と言っているのが「滅諦」で、その中道の境地に至るための具体的な方法を解説しているのが「道諦」である、と言えると思います。
ちなみにその中道について具体的に述べているのが以下に出てくる
『一の正見』と
『六の正精進』です。
<『無我』の真理>
そしてもう一つの『真理』、それは「私たちの自我には実体がない」という『無我』の真理。
「私」という主語が薄く軽くなって、いわゆるほぼ無我の状態でいても、今までと同じように肉体は生活を営み穏やかな日常は続いていくんですが、それらは「私」という自我が「する」のではなく、「この身体に起こっては過ぎ去っていく出来事」という感覚として捉えられるようになると思います。
「出来事」を「体験」として捉える個の意識が薄い、という言い方もできるでしょうか。
個人という感覚があまりないので、何か出来事が起きてもそれは主体的・能動的体験ではなく、それゆえに執着も軽くなる、という感じでしょうか。
この『無我』に感覚を慣らしていくための実践的方法を紹介しているのが
『二の正思惟』
『三の正語』
『四の正業』
『五の正命』そして
『七の正念』です。
ちなみに人によるっぽいですが、陰陽統合による『中道の境地』を見出すことで自然と『無我』を体感できる人もいると思います。
あるいはまれに何らかの理由で一瞥体験などを経て『無我の境地』に至って、そこから『中道の境地』に至る人もいると思います。
つまり『無我』も『中道(陰陽統合)』も同じことの別の側面であってどちらからアプローチしてもたどり着くところは同じ、ということなんだと思います。
「私たちの自我には実体がない」ってあたりに関しては「受動意識仮説」などと呼ばれていて、科学的にも分析されて検証が進んでいるようです。
(すごいですよね〜。仏陀の説いた教えの科学的根拠が示される時代)
以上を踏まえて八正道を見直してみると、以下のような見方ができると思います。
あくまでも一つの意見、一つの解釈、ということで。
一、正見:
目に映るそのままに解釈や判断を加えずに、ニュートラルな「ありのまま」をみる、ということ。
目に映る対象をシンボル化しないで、そのままを見る、とも言えるかもしれません。
非二元的捉え方、中道的、陰と陽が中和・統合された見方、と言い換えることもできるかもしれません。
私たちは普段、いろんなものを比較して判断して「あれは良くてこれは良くない」ってジャッジしますよね。
あるいは「これはこういうもの」、「これはこうあるべき」みたいな固定観念で物事を判断しますよね。
実はそういうふうに相手や対象をジャッジしてる時って、その対象の一部分しか見えてないんです。
正見はこの2つ、「非シンボル化視点」&「ニュートラル視点」の2つの視点で、目に映る対象を「ありのままに」見ることが鍵になると思うんです。
(「ニュートラル視点」については先述の「中道」の部分でも触れていますが)以下に順番に説明してみます。
<非シンボル化視点>
これは、左脳的ではない右脳的な認知の世界、とも言えるかもしれません。
私たちの脳は普段、既知の対象に対しては、多くの場合、無意識下で瞬時に区別・分類して、ラベル付けをしています。
机、壁、猫、テレビ、道路、街路樹、空、、、
この無意識下で行われてるラベリング作業が、対象の「シンボル(暗号)化」です。
ラベリングすることで右脳内での情報処理負荷を軽減してるのかもですね。
(代わりに左脳側への刺激が増える気がしますが、どうなんでしょう)
でも例えば、今まで食べたことのない食べ物に挑戦する時。
あらゆる感覚を使って観察・分析して、できるだけ色んな情報を収集しますよね。
あるいは、久々のバケーションで海にやってきた時。
足の裏の砂の熱や感触、潮風の匂いやベタつき、海水をかき分ける感触、水から上がった時の温度差、全身で「海」を感じると思います。
あるいは、お一人様一食ウン万円する高級料理を食べてる時。
視覚・味覚・嗅覚・舌触り、全てを動員してひとかけらも余すことなく、絶対モト取ってやる!って全身全霊で味わいますよねw
この時、全身の感覚を使って感じて味わって堪能してるその時、その対象をシンボル化せずに、「ありのまま」見ている、と言えると思います。
でももしあなたが海の家でバイトしてて、毎日潮の香りをかいでいたら、それは徐々に「新鮮な体感」から、意識を鋭く向ける必要のない「いつもの見慣れた光景、既知感覚」に変わっていき、徐々にラベル付けされた、ただのシンボルとして、意識の隅で瞬時に処理されるようになります。
確かに見慣れた景色なのに周囲の全てをいちいちじっくり味わって観察してってやってたら、脳は情報で溢れちゃいますよね(雑な言い方をすれば私たちの脳って、いろいろ見ているようで見ていないんですね。「ありのまま」が見えてないことが多いんです)。
そう考えたらこのシンボル化はある意味、脳が大きくなるにつれて自然に備わってきた機能の1つなんじゃないかと思います。
それでも人間社会の日常においては、区別・分類・ラベル付けできるものだらけで、この「シンボル化」機能もオーバーヒート気味になってるんじゃないかと思います。
だから、脱シンボル化なんです。だから、自然の多い場所に行くと、区別・分類・ラベル付けがし難い、境界線の曖昧な、名付け難いものが多い自然の中に行くと、オーバーヒートしてたラベリング機能が自動的に静まるので、安らぎを感じリラックスしやすく感じるのではないでしょうか。
<ニュートラル視点>
そしてニュートラル視点。誰かの一つの行為や一つの側面を見て、「あの人はいい人だ」とか「嫌な奴だ」とか判断することってありますよね。
そゆ時ってその相手の一部を見て、あたかもそれがその人のすべて、みたいな感覚になりますよね。
「あのひとはいつも明るくて元気で前向き」とか「あのひとはいつも暗くて素っ気なくて感じ悪いなぁ」とか、誰しも思ったことあると思うんです。
でも、当たり前ですが、人間ってそんな一面的なもんじゃないと思うんです。
どんな人でも長所や欠点がありますよね。
どんな人でも「親切と意地悪」、「明晰さと愚鈍さ」、「明るさと暗さ」、「得意と不得意」、「気前の良さと吝嗇さ」、「几帳面さと大雑把さ」、「真面目さとだらしなさ」などなどを、すべてを持ち合わせているのが人間じゃないでしょうか。
どちらか片方だけの人間なんていないし、「いつも」明るい人間なんていないと思うんです。
どんな性質も持ち合わせていて、相手によって・状況によって見せる顔も態度も気分も変わってくるのが自然だと思います。
陰も陽も、ともに兼ね備えている存在として、相手も自分も、公平にありのままを見る(つまり、誰しもみんな「親切な側面も、親切じゃない側面も、意地悪な側面も、意地悪じゃない側面も」全部を兼ね備えているという見方)。
と同時に解釈や判断を加えず、ニュートラルな視点でありのままを見る(つまり、「親切」にも「不親切」にも共に+・ー両方の側面が同じだけあって、「意地悪」にも「意地悪じゃ無いこと」にもどちらにも同様に、+・ー両方の側面が等しく備わっている。そしてそれらそれぞれの+・ーにもまた、それぞれの+・ーが等しくあって、それはどこまでも続いていく、という捉え方)。
そんな意識的な捉え方が『正見』的見方を鍛えるのかもしれないです。
これを別の例えに置き換えてみます。
坂道って、下から見るか、上から見るか、どちらから見るかで、上り坂になったり下り坂になったりしますよね。でも上り坂と下り坂は必ず同じ距離だけ存在していますよね。
バランスのとれた視点を保つためには、一方的・片面的な解釈・決めつけ・思い込み・先入観を取り除いて、坂道自体は本質はニュートラル (ただの地面の傾斜) である、という坂道そのものの「ありのまま」を見ること。またニュートラルであると同時に、人間の視点次第で、上りにも下りにもなり得る、ということを知ること。
上り坂だけ見て、この坂は苦しい、と判断するのは断片的でまさに一方的。
上り坂にも、+の側面・ーの側面が等しくある。
同時に下り坂にも下り坂の、+・ーがそれぞれある。
それが、1つの坂道をありのままに見る、ということなんだと思います。
厳しい修行を聖なるものと決めつけて崇める必要もなければ、快楽を邪なものと決めつけて避ける必要もないんです。
それらは単にそうあるだけで、そこに貴賎とか優劣とかはないんだけれど、でも同時に陰であり陽であり、陰極まれば陽となり陽極まれば陰となる、「苦行と怠惰」はまさにそんな好例として仏教では取り上げられるのだと思います。
どちらにも執着することなく或いは否定して避けようとすることもなく、どちらもありだしどちらも尊いと心から思えたらそこには、自然とちょうどいい中庸が見つかるだろうし、どちらもありだし尊いと思えたらそこには、安らぎと感謝しかないですよね、きっと。
だってどっちでも奇跡なんですよ。
対象を「ありのままみる」って、そういうことなんだと思います。
二、正思惟:
ありのまま、ただ湧き上がるままに思い、浮かぶまま考えること。
「身口意の三業」のうちの「意」。
マインドフルネスなんかでもよく言われることですが、思考に対してはただ気付いて観察をすれば良い、という考え方ですね。
思考や感情って自分の意思とは関係なく、止めることは出来ないし、次から次へと自動的に溢れ出てくるものですよね。
そして思考や感情に囚われたり影響されている時って苦しいですよね。
そのせいか人類は怒りとか悲しみとかを抑えて苦しみやストレスを消し去りたい、みたいに思ってしまいます。
でも怒り悲しみも間違いなく自然の摂理として人間に生まれつき備わっている機能であり大切な一側面であるはずです。
それらを避けて否定することはすなわち自分の一部を否定してることにならないでしょうか。
それは人間性の一部の否定であり、正見から少し逸れるような考え方であるように思えます。
そう考えると、怒りを感じることも欲望を感じることも自然な発露の一環であり、否定したり目を背けたりする必要はないのかもしれないですよね。
怒りもまたありのままの世界の一部であり、そうあるべくしてそうなっている自然と必然の産物であり、否定したり排除しようとしたりする対象ではないのではないのかもしれないと思います。
むしろ怒りなどの感情は、自分が握りしめている二元的な想念に気が付かせてくれる無意識からの大切なフィードバックだと思います。
否定することなく、執着することなく、ただ気付いていればいい。そう思います。
思考について付け加えるなら、思考って特に、自我や人格や個という感覚を構成する主な要素とも言えると思います。
思考がぐるぐる流れなくなると、それに比例するように徐々に個人という感覚も薄く感じられるようになっていきます。
思考が起きないと、特に「私」という主語をつける思考がないと、物事を「わたくしごと」にしてしまわずに、徐々に、出来事をただの出来事のまま「個人の体験」にせずに観察することができるようになってきます。
だから正思惟によって思考や感情をありのままに観察できたら、徐々に「思考とか感情って『自分』じゃないんだ」ってリアルに感じられるようになると思います。
正思惟はその第一歩になると思います。
三、正語:
湧いてくる言葉をありのままに伝える、ということ。
「身口意の三業」のうちの「口」。
喋るという行為一つとっても、真理の一つである『無我』を感じられるようになるとそれは、「私」という主語が「やっている」というよりも「この身体という『場』に、出来事や現象が発露している(起こっている)」という感覚になります。
そしてそれら全てにただ気付いているだけという意識になります。
そうすると執着やこうするべきといった無縄自縛的とらわれから自由になるので、ただ起こってくることを信頼して味わうだけ、という感覚になります。
悪口や粗暴な言葉遣い、嘘や誹謗中傷もまた、もしもそれが起こるのであればそれは自然の摂理として必然的に起こってくることであるがゆえに、変えようとしたりコントロールしようとしたりする必要はなく、ただありのまま湧き出す、その言葉に、その瞬間に、くつろいで楽しんでいればいいのではないでしょうか。
ここを少し深掘りするなら、たとえば嘘や誹謗中傷も、私たちの自我意識が「あれはいいことでこれは悪いこと」とジャッジをするまではニュートラルなんです。
そして仮にネガティブな側面が認識されたなら、その瞬間に同じだけのポジティブな側面を頭の中に生み出しているんです。
誹謗中傷のマイナス面が顕在意識に出てきた瞬間、プラス面も生み出されているんです。
そしてその両面を等しく見ない、ということはその出来事をありのままに見ていない、片面しか見ていない、ということになるんです。
何度も繰り返しになってしまうんですが、その偏った片面的な捉え方が渇愛の原因であり苦の原因である、と「四諦」は伝えたいんだと思います。
ちなみに「身口意」のうち「口」に相当するこの正語が、一番実践の難易度が高いように感じます。
四、正業:
あらわれてくる行動をそのままありのままにする、ということ。
「身口意の三業」のうちの「身」。
こちらも上記の正思惟や正語と同じですよね。
この身体という場にあらわれている現象を、ありのまま変えようとすることもなく、否定しようとすることもなく、ただ淡々と起こるがままに信じて委ね切る、そしてその起こるがままに気付き続ける、ということ。
「私が、私は」と主語をつけて「自分ごととして体験する」のではなく、「ただそこに起こる出来事」を淡々と観察する練習、とも言えますね。
こうした「起こり」を観察して行くことにより、自我という幻と『無我』という真理に少しずつ脳みそや身体が調整されて行くんだと思います。
まさに道(生き方)ですよね。
五、正命:
ありのままをありのままに見て思惟し言い動く。
それがそのまま正命(ありのままの生き方)になるんだと思います。
もし『中道』と『無我』と『諸行無常』が真理であるならば、正しい聖なる道であるならば、どんな出来事ももしそれが起きたのであれば起きるべくしてなるべくしてそうなったのであって、それが自然の摂理であり必然であり、そこには善悪も優劣も損得も貴貧もなくて、それは絶え間ない川の流れのように常に変化して流れ去っていくものですよね、きっと。
だから仮にAとBがあったら、
「Aであってもいいし、
Bであってもいい。
Aでなくてもいいし、
Bでなくてもいい。
AとBと両方でもいいし、
もしかしたらCでもいいのかもしれない」
といったようにすべての可能性をただオープンに楽しむことができるようになると思うんです。
だってすべての可能性が、等しく尊くてかけがえのない奇跡なんです。
たとえば「あなたという存在がいまこの年のこの日のこの瞬間に、この超高速で移動し続けている地球という星の上の宇宙で唯一のその位置で、その格好でその体勢でこのブログを読んでいる」という出来事ひとつ取っても、実はそれ、この天地が創造されて以来いままで一度も起こったことがなかった、この宇宙が初めて経験する出来事なんです。
そして同じ瞬間はもう2度と起こらない。
もしホントにそうなら、すべてがかけがえのない奇跡ってなりますよね、きっと。
だって宇宙始まって以来、最初で最後ですよ。
六、正精進:
仏教における四正勤と呼ばれる修行の一つで、以下の4つにどのように向き合ったらいいのかという実践からなります。以下順に解説してみたいと思います。
a: 「すでに起こった不善」>>>
これは過去に起こったネガティブな出来事や経験(不善)のありのままを見つめ直すことにより、その出来事は不善であったと同時に善であり、なるべくしてそうなったのであって、それは完璧な秩序と調和の結果であって、少しも変えたり否定したりする必要はない、ということを探求するという実践。
これにより中道にいたり、過去に生じた苦しみを消滅させて行くことが可能となります。
b: 「未来に起こる不善」>>>
これは未来に起こり得るネガティブな可能性(不善)のありのままを見つめ直し、その可能性のプラスの側面とマイナスの側面を同時に認識することにより、AでもBでもABでもCでも、どれも等しく尊いし素晴らしい、ということに気がつくという実践。
これにより未来に起こる不善への過剰な不安を取り除くことが可能となります。
c: 「過去に生じた善」>>>
これもまた過去に起こったポジティブな出来事や経験(善)の、ありのままを見つめ直すことにより、その出来事は善であったと同時に不善であり、なるべくしてそうなったのであって、それは完璧な秩序と調和の結果であって、少しも変えたり否定したりする必要はない、ということを探求するという実践。
これにより執着を手放し中道にいたりあらゆる苦しみを消滅させていくことが可能となります。
(何故ならば善があれば必ず不善があるからです。それゆえに善を良いことと断じてもっと欲しがって執着する心がなければ、反対に不善を悪いことと断して否定して避けることもなくなり、思考から生み出される二元性が統合・統一・中和されるからです。
そうすると思考のノイズが静まりそのぶん『身体』や『場』の『感じ』に気が付きやすくなると思います)
d: 「いまだ生じていない善」>>>
これもまた未来に起こり得るポジティブな出来事(善)のあらゆる可能性をありのまま見つめ直し、その可能性の陰陽両サイドのありのままの真理を同時に認識することにより、起きてくることへの信頼が感じられるので手放しやサレンダーがより促進され、まだ起きていないことへの過度な期待や欲や執着を取り除くことが可能となります。
こうした陰陽統合の取り組みをすると、脳内に「対消滅」という現象が起き、その結果「中道」の境地を体現します。
『対消滅』とは素粒子とその反粒子の対が合体して消滅し、 他の素粒子や光子エネルギーに転化すること。
たとえばマイナスのエネルギー(マイナス電荷)をもつ電子と、プラスのエネルギー(プラス電荷)を持つ陽電子が衝突すると、電子と陽電子が消滅し、それぞれのエネルギーの和と等しいエネルギーを持つ光子に変換される、という物理現象です。
そしてこの対消滅の原理は双極的な感情のエネルギーにも当てはまるんです。
対消滅とともに二元的(双極的)感情が統合されると、その結果として、脳内に中道の境地と光のエネルギーを作り出すことが可能になります。
(光のエネルギーとかいって、文章にするとだいぶ怪しげですね笑)
でも真面目に、それはまさに光と愛と感謝が心に溢れまくる、魂が震えるような体験なんです。
これをワンネス体験とかって呼ぶのかはわかりませんが、中道の境地に至ると、その神秘的な秩序と妙なる調和の存在が体感としてわかるので(なぜ凸や凹がそのようになっているのか、なぜそうでなければならなかったのか)自分の中の凸の部分はもちろん、凹の部分にも『無条件の愛と感謝』を感じられるようになるんです。
極端な話、感極まってるときは、床に落ちているゴミとか、飲みかけのペットボトルとか、なんでもないものを見ても、調和というか「これでいいんだ、それはあるべくしてそこにそうあるんだ」という不思議な確信めいたものを感じます。それってまさに、世界をありのままに受容している状態なんだと思います。
自分の凹だと思っていた側面ですらそうなるべくしてそうなっていて、そのままのありのままで完璧で、変える必要も否定する必要もないということが実感できるようになるんです。
そうすると、ありのままの自分自身をまるごと肯定することができるようになります。
それはそのまま自己受容感、自己肯定感、自己愛のアップに直結するように思います。
そして自分自身の内で否定して無意識に切り離していた部分とのつながりが回復するので、自分自身との心理的な分離感が解消されます。
それってきっとものすごい癒しですよね。
そしてさらに中道の状態で無条件の愛と感謝を感じている時って「ワンネス」とか「大いなるひとつ」とか「源」とつながってるって実感できるから、より根源的な分離感が解消されるんだと思います。
だから今、強い感情を感じて苦しんでいる人は、大きな大きな華を咲かせるためのタネを育ててる人なんだと思います。
だから結局はやっぱり、変えたりコントロールしなきゃいけないものなんて、ないんですよね。
って気付くと、変わることは勝手に変わっていったりしますよね。
「頑張って、変えよう、もっと良くならなきゃ」ってしなくなると、変わるべきことは自然に変わっていく。
ほんと不思議です。
七、正念:
ありのままに気付く、ということ。
原語のSamma-Sati は正しい気付きとも訳されるそうです。
サティってビパッサナー瞑想で出てくる「気付き(サティ)の瞑想」と同じサティですね。
一瞬一瞬の現在の瞬間に、「今ここ」に、気が付き続ける、というような意味になると思われます。
つまり正念は「諸行無常である今ここに気付き続け、意識の光を向け続ける」という風になると思います。
まさにマインドフルネス、ですね。
補足すると「気付き続け意識の光を向け続ける」のは、解釈したり判断したり把握したりすると、途切れてしまうと思います。
でもついつい解釈したり把握したりしちゃうと思います。
そこをグッと抑えて、気付きに留まり続けることが、マインドフルネスに留まるコツです。
ちなみにサティは日常生活のあらゆるシーンで入れることができるとされていて、肌にシャツが触れる感覚や足の裏の感覚などの皮膚感覚から、聞こえたもの、感じたもの、考えたこと、などなど意識に一番強く現れた感覚に気付き続け、その感覚や思考をジャッジしたりすることなく、ただ観察し続ける、「今ここ」にとどまり続ける、という瞑想です。
なのでこの正念は、二〜五までの正思惟、
正語、
正業、
正命、
それぞれの瞑想バージョン、という感じでしょうか。
仮に心が乱れても、その乱れもありのままただ気付き、「今ここ」にい続ける、ということですね。
めっちゃマインドフルネスですよね。
八、正定:
ありのままの精神集中、とでも言えるでしょうか。
原語のSamma-Samadi は正しい精神集中とも解釈できそうです。
静かに座り呼吸などの対象に心を集中させ、能動的な作用がなくなった状態がサマーディなんだそうです。
日本語だと「三昧」というそうです。
この「能動的な作用がない状態」というのはつまり「私が」という主語のなくなった状態のこと。
無我の境地に至るまで集中が高まり、精神統一され、心の静けさが保たれた状態。
心の静けさが保たれた状態というのは、心のざわつきや雑念がなく、言語による受動思考がない状態です。
そのようなサマーディの状態を目指す瞑想をサマタ瞑想と呼びます。
どんな対象に集中するかにもよるけど、呼吸とか身体感覚と意識が上手く同調してる時って、その間、言語による受動思考は静まっていると思います。
言語による受動思考がないと、起きる出来事や想念に、「私が、私は、私の」って主語をつけないから、それらが単に「出来事や物事」で完結して「個人的体験」ではなくなるんです。
「出来事や物事」に対して少し距離を持って観察することができるんです。
自分から能動的に世界に関わっていくのに対して、そこにある世界を受け取って観察するっていう姿勢。または状態。
この「私」という主語がつかない状態に慣れてくると、だんだんと自分の思考や言動や感情も、出来事や物事と同じで、自動的に起きてきている、というのがわかってきます。
「私」という主語をつけて、自分でやらなくても、勝手に起きて、勝手に流れ去っていく。
自分でやって (いるように錯覚して) も、あるいはただ起きるに任せても、必要なら起きることは勝手に起きてきます。
この点、私たちの思考も言動も感情も、季節の移ろいと全く同じなんです。
私たちがどんなに頑張っても頑張らなくても、季節は自然と移り変わっていくんです。
季節の変化を「私が変化させている」って思うことはないと思うけど、でも思考や言動や感情は「私が考える、私が行動する、私の感情」って思い込むことができるんです。というか脳の機能の作用として、そう錯覚させられてるんです。
言語による受動思考がない、または受動思考との距離が取れてその影響を強く受けずにいられると、起きることに「私」という主語がつかないから、感情が起こっても巻き込まれることが減るし、感情に巻き込まれずにいられると、世界を客観的に眺めていられます。
そんな状態を日常的に感じるための、言語による受動思考を止める練習・実践がこの正定なんですね。
以上、『新釈・八正道』でした。
たぶん現代的要素を絡めて要約すると、マインドフルネスと、ヴィパッサナー瞑想と、陰と陽の統合をミックスしたような、非二元と無我を体感するための実践的な手引き、って感じでしょうか。
拙者は仏教に関しては門前の小僧ですが、大筋は外してないと思うんです。
仏陀が残した、涅槃に至るための生き方、日常生活でも全然普通に取り入れられると思うので、ぜひ実践してみてください。

