
<癒しとは>
まずは、「癒し」の定義について。
肉体的な疲労や傷や病を治し安らぎを与えることと、
精神的な疲労や傷や苦しみを和らげ安心感を与えること。
この2つがありますが、今日は精神的な癒しについて。
記事の最後でこの「癒しとは」という終着地点に着地するので、
ぜひ最後まで楽しんで読んでいってください。
<私たち人間は、一本の樹>
私たち人間って、まるで一本の「樹」のようだなって思うんです。
青々とした枝葉を、風にそよがせて、太陽の光にきらめかせている、
そんな「陽」な部分の自分を、本当の自分だと思いたいし、思われたい。
でも地面の下の暗くてジメジメ湿った、ドロにまみれた「陰」の部分も実は、
自分を支える、大切な自分自身の一部なんだとしたら…。
私たちは普段何気なく、いろんな自己否定をしながら生きていますよね。
私たちは日常いろんな人やものを「あれは良い、悪い」とジャッジして、
肯定したり否定したりしながら過ごしてますよね。
自分には長所もあれば短所もある。
そして長所は肯定的に捉えられるけど、短所は否定的に捉えてしまう。
そしてその欠点をなんとかしようと頑張る、または無視する。
きっと、こんなふうに自分の「陰」の部分を捉えることって、
別に特別なことではないですよね。誰でもしますよね。
でも実は、自己否定をすることは、自分の「陰」の部分、
地面の下の根っこの部分を「暗くて湿っぽいから」と
拒絶して切り捨ててしまっているようなものなんです。
でも根っこを傷つけてしまうと、樹全体が弱ってしまいますよね。
拒絶だけならまだしも、切り捨てようとして、
時には、なんとか変えようとして、必死に責めてしまうんです。
まるで、攻めているかのように、攻撃をしているかのように…。
まるで自分の中でもう一人の自分との戦いが起こっているかのように…。
これが私たち現代人の多くが抱える分離感の正体なんだと思います。
認めたくない自分の陰の部分を排除しよう、切り離そうと、
一生懸命に自分を根っこ (陰) から切り離そうと攻撃する。
自分を責めるたびに、こんな戦いが自分の中で起きてるとしたら…。
枝葉を高く伸ばして、綺麗な花や果実を実らせるためのエネルギーが
実は、根っこを切り離そうとすることに使われ続けているとしたら…。
多くの現代人が、辛いとか、疲れたとか、元気が出ないと感じているのは
もしかすると、こんなところにルーツがあるのかも知れません。
でももし切り離そうとしていたその欠点が、陰の部分が、
実は自分を根底から育むために無くてはならない、大切な土台だったとしたら。
嵐の日にあなたという樹を支える、かけがえの無い根っこそのものだったとしたら。
その地中の陰の部分が、まさに一本の樹の根幹をなす根っこそのものだったとしたら。
<陰と陽の統合は自分自身との統合>
そこでその自分の中の内戦を終わらせるための
実践的な選択肢の1つとしてご提案したいのが、
陰と陽の統合、という考え方、捉え方なんです。
自分の中の対となる二元的概念である陰と陽。
この2つのバランスを見つけ統合する(1つにする)ことによって、
短所などの陰の部分にも+とーの両方の要素があって、
長所などの陽の部分にも+とーの要素が等しく備わっている、
ということに気が付くことができます。そんな考え方です。
そうすると長所が絶対的な善ではなく、
同様に短所が絶対的な悪ではない、ということに気が付きます。
マイナスに感じる部分にも、ギフトや恩恵が隠れていて
プラスに感じる部分にも、不利益やリスクが潜んでいる。
そうすると、感情に流さた一時的で一方的な見方ではなく、
「いい悪い」「正しい間違ってる」などの色眼鏡を通さず、
物事の本来のありのままの姿を丸ごと冷静に俯瞰できるようになります。
短所はあってもいいしなくてもいい。
長所もあってもいいしなくてもいい。
どちらも素晴らしいし、だからこそ、ありのままでいい。
何かを変えようとしたり、否定しようとしたりしなくていい。
そうすると自分の中で否定されて切り離されていた部分との
つながりが回復して、「自分自身」との心理的な分離感が埋まります。
マイナス(と思い込んでいる)部分にも、+・ー両方の側面があって、
その+とーはいつでもバランスしていて、なるべくしてそうなっていて、
少しも変える必要がないということが、腹の底から納得できるようになります。
すると自分の中の陰の部分にも『無条件の愛と感謝』を感じられるようになります。
~~ だから愛してる、という条件付きの愛、ではなく、
~~ でも ~~ でなくても、どうであろうと愛してる、という「無条件の愛と感謝」です。
地面の下の暗くて泥だらけの根っこも、曲がりくねって不恰好な根っこも、
それがどんな根っこでも、自分のありのままを愛することができる。
陰陽の統合はそんな考え方です。
これは自分の欠点を美化したり、
正当化したり、開き直ることとは違います。
ポジティブ思考とも違います。
一方的な見方に縛られない多角的・多面的視野で、
感情というフィルターを通すことなく客観的に、
欠点という、ーであり+でもあり、同時に+でもーでもない事柄の、
ニュートラルなありのままを、ありのままに見られるようになります。
そして、もし変わることが必要なのであれば、
無理に起こそうとしなくても、自然とその変化は訪れます。
例えるなら、一本の樹に自然に訪れる四季の変化もまた、
陰と陽の統合のプロセスそのものも。
季節は変えようと努力しなくても自然と変わっていきますよね。
葉が落ちてしまう冬は一見すると衰退や、困難な時期に見えますよね。
でもそれは実は春にまた葉を茂らせるための重要な準備期間なんです。
より高くジャンプするには、より強く地面を蹴る必要がありますよね。
より大きく枝葉を広げるためには、より深く広く地面に根を張る必要があります。
冬の寒さも夏の強い日差しも降り続く雨も冷たい風も、全部が樹に必要な要素。
どんなものも無理に変えたり否定しようとしなくていいんです。
陰と陽の統合という視点で物事を見る前は、
仕事で批判された時とか、自己嫌悪に陥ったり、
”あの人はわかってない” って他人を責めたりしてました。
相手と自分、どちらかが正しいとか間違っているといった
分離の世界にいたから、自然とそうなってたんですね。
でも陰と陽の統合をしていくとと、その批判を、
枝葉を揺らし幹や根を太くするための風として捉えることができるようになるんです。
批判は敵からの攻撃ではなく、成長の糧なんだ、と捉えることができるようになります。
マイナスと感じていたものにもプラスの側面があると捉えることができるようになります。
でもその一方で、例えば雲間から差し込む賞賛という心地いい暖かな太陽の光も
慢心を生んだり、そこに執着して雨を厭う気持ちを生むこともあるかも知れません。
プラスと思っていたもののマイナスの側面にも気が付くようになります。
そして徐々に自分の中の陰と陽の対立が昇華されていくにしたがって、
プラスもマイナスも、とてもリアルにこの世界に存在してるように感じるけれど、
実は、どちらも人間という生き物の脳ミソの中の、概念の世界にしか存在してなくて、
しかも条件や視点、国や時代や文化が変われば変化する、あやふやなものと気が付きます。
でもそんなことには関係なく、風も光も雨も土も、関わる全てが、
樹にとってはただそうあるだけで、同時にすべて等しく必要な要素。
良い天気にだけ価値があるわけではない、ということを知っている樹は
ただそこにあるだけでその存在は深くゆるやかで、でもどっしりと揺るぎないんです。
まずは自分の中の小さな葛藤に気づき、
何かを良いとか悪いとかジャッジしてるのに気が付いてみる。
そして意識的に、具体的にそのバランスを保ってみる。
例えば自分の欠点が、自分や他者の役に立っているとしたら。
この欠点があることで、どんな恩恵を受けているか。
そこにどんなギフトやレッスンが隠れているか。
その欠点のおかげで、得したことはないか。
その欠点がなかったら、困っていたことはないか。
まるで一枚の落ち葉を、裏も表も慈しむように、
自分の嫌いな部分をじっくり観察して、分析してみる。
そんな小さな一歩こそがまさに、
揺るぎない自分へと続く統合への道になるんです。
ちょっと脱線しましたが、この記事のタイトルになっている
「陰陽の統合が癒しにつながる理由」は、「陰陽の統合が自己の統合につながるから」。
それは比喩じゃなくて、文字通り分離させられて、切り離されていた自分自身の一部、
その自分の一部の、傷や痛みを癒すことに直結するからなんだと思います。

