無我のススメ – ただ起きるがままに

 

何かをするとき、その行為は「ただ起きる」
ということに気がついてみる。

全体という、
宇宙という、
地球という、
自然という摂理、
システムの中の一部の、
大きな流れの一部として、
その「動き」は「ただ起きる」。
「わたし」という主語をつけなくても。
 

そのことに気が付いてみる。
そんなススメです。

たとえばあなたがコップを手に取ろうとするとき、
①「コップを手に取ろう」と思う
②「手を伸ばしてコップをつかもう」と電気信号が発生する
③ その電気信号が腕や肩や手の筋肉とかに届く
④ 腕が動いてコップを手に取る。
っていうフローが発生する、と思うじゃないですか。

でもね、これについては実は世界中で様々な実験が行われていて、
① の「コップを手に取ろう」と思う0.2秒〜7秒 (!?)も前に補足運動野において
「準備電位」というシグナルが発生していることが明らかになっています。
つまりまずなんらかの理由により ② が起きてそのあと最大7秒ものタイムラグののち
① の「コップを手に取ろう」という思いが顕在意識に湧き上がってくる。
つまりつまり、「コップを手に取ろう」と意識することは、
一連の無意識のプロセスののちに生じる「結果」にすぎず、
それを追認して後付けで認識し、
あたかも自分が主体的に考えた結果であるかのように
「主体感を持って観測する」というのが
自意識の役割なんじゃないだろうか、といわれています。
(そしてそれは効率的な記憶のために発達した機能なのでは、
と個人的には思うのですが、また別のブログで)
あなたのその肉体はあなたが意識しなくても、
自然に呼吸をし血液や栄養を全身に循環させ、
自然に新陳代謝を行いその生命を維持し、
自然に五感を通して世界を知覚し、
流れるように日常生活過ごすんです。
(ちなみにこれ、「受動意識仮説」なんて呼ばれてて
科学的に実証されつつあるみたいです)

それってつまり、私たちが一生懸命あれこれ考えなくても、
色々判断してジャッジしていちいち後悔とかしなくても
普通に人生は流れていきますよってこと。
実は、今までもずっとそうだったんです。
これからもずっとそうなんです。
その「ただ起きている」一連の動きを
ぜひ日常の中で意識的に感じる時間をとってみてください。
今まだって、「自分が」という主語をつけなくても
この肉体は大いなるシステムの一部として
絶え間なく自然と維持・運転されきたんです。
これからだって、「自分が」という主語をつけなくても
その日々の営みは連綿と自然と継続されていくんです。
その自覚を育てる時間を意識的に確保してみると面白いと思います。

全てを委ねて、観察者として、
ありのままの今ここを味わってみる。
その安心感や穏やかさに自分の全てを委ねてみる。
そんな風にしていると大いなる源とそこに繋がっている感じを
より感じやすくなるんじゃないかな。
そして徐々にその大いなる存在への信頼感が高まっていく、
そんな風に感じました。

あなたはもっと自由になれる。

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