「原因と結果」という、便利で残酷なロジック
私たちは幼い頃から、「原因があるから結果がある」という論理の中で生きています。 テストで悪い点を取ったのは「勉強しなかったから(原因)」。 仕事がスムーズに進んだのは「準備を怠らなかったから(原因)」。
このロジックは非常に便利。原因を分析すれば、私たちは生活を改善し、未来をより良くコントロールできると感じられます。人類の文明の進歩は、まさにこの「因果関係の解明」の歴史と言っても過言ではないかもしれません。
しかし、この便利なツールは同時に、私たちの心を傷付ける「諸刃の剣」になることも。 望まない結果が起きたとき、私たちは反射的に「誰が悪かったのか、何が悪かったのか」という犯人探しを始めてしまいます。 「あの人があんなことを言ったから」「私がもっと注意していれば」。 そうやって自分や他人を責め、後悔と苦しみのループに沈んでいく。この記事では、そんなループから抜け出し心を軽くするための、一風変わった視点をご紹介してみたいと思います。
人間関係は、複雑な隠し味の「シチュー」
例えば、パートナーや友人と喧嘩をしてしまったとき。 「だって、あの人があんなひどいことを言ったから」 なんて思うとき。確かにその一言は、喧嘩のきっかけになったかもしれません。その一言がなければ、喧嘩にはならなかったのかもしれません。
でも、少し立ち止まって考えてみてください。その「喧嘩」という結果は、本当にその「一言」という原因だけで構成されていたのでしょうか?
美味しいシチューを作るとき、そこには肉や野菜といった具材だけでなく、塩、コショウ、ブイヨン、そして調理プロセス、煮込み時間、鍋の熱伝導率、作る人のスキルやその日の体調、さらには長年使い込まれた調理器具のクセといったものまで、無数の要素が絡み合っています。
「喧嘩」という名のシチューも同じです。例えば…、
- 具材: 相手の放った一言、前から蓄積されてた小さな不満
- 隠し味: 過去のトラウマ、あなたの体調、寝不足によるイライラ
- 調理環境: その日の蒸し暑さと部屋の湿気、仕事のストレス、SNSで見かけた嫌なニュース、などなど
こういった数え切れないほどの要素が、複雑に、絶妙に絡み合って、その結果、「喧嘩」という料理を成り立たせています。「どれが決定的な原因だったか」はどの立場からその喧嘩を眺めるかによって変わるのかもしれません。タイミングによっても変わるかもしれません。もしかするとあなたの気分によっても変わってくるかもしれません。具材も隠し味も煮込み時間も、そのどれかが欠ければシチューの味は違ったものになるでしょう。
「お湯を沸かしたから、シチューができた」と言ったら「話が飛びすぎでしょ!」と笑うと思います。でも私たちは人間関係や仕事などでは、同じようなことを無意識にやっているのではないでしょうか。
自然現象に学ぶ、原因特定の不可能さ
では例えば、「雨」という、人間の意思が介在しない、自然現象ではどうでしょうか。「科学的なことなら、原因は特定できるはずだ」と思うかもしれません。
「なぜ今日、この場所で雨が降ったのか?」 気象予報士なら、気圧配置や湿った空気の流れで説明してくれるでしょう。しかし天気予報も確実ではありません。厳密な意味で「すべての原因」を明らかにすることは、現代科学をもってしても不可能なんです。
気温、湿度、風向、地形、空気中の塵の量……。 それら無数の変数が、カオス理論のように複雑に影響し合っています。人間には感知することも計測することもできない要素もあるでしょう。 つまり喧嘩の原因も、雨が降る理由も、突き詰めれば、「全部でいくつあるのか」、それさえ特定することはできないんです。
さらには「なぜ、その瞬間に、その場所の気温が、湿度が、風向きが、地形が、その状態になったのか?」といった間接的な原因まで辿り始めれば、話は宇宙の始まりまで遡らなければならなくなります。
つまり雨が降る直接的な原因も、その背景にある間接的な原因も、突き詰めれば「誰にもわかり得ない」のです。 それでも私たちは「低気圧がきたから雨が降る」という因果関係のごく一部分だけを切り取って、「原因と結果」と呼んでいます。もちろん気圧が下がらなければ、たぶん雨は降らない。そしてここだけ見ると「原因と結果」が成り立っているように見える。でもそれは無数にある変数(=原因や理由)の、ごく一部分でしかないんです。
脳は出来事を把握するために、一部を切り出す
人間関係のトラブルも、仕事の失敗も、自然現象も同じです。 本当は無数の要素が絡み合った結果それが起きているのに、私たちの脳は、複雑に絡み合う禍福の縄を解きほぐそうとする代わりに、そのごく一部を切り出して「わかりやすい犯人(原因)」を見つけ、そこに全責任を押し付けてしまいたがります。
「因果関係の一部分を切り出す」ということ
普段私たちが「原因」と呼んでいるものは、複雑に絡み合った禍福の縄から、自分が認識しやすい一本の糸だけを無理やり引き抜いたようなものです。 その一本がなければ、確かに結果は変わっていたかもしれません。でも、残りの無数の糸がなければ、やはりその結果は生まれていなかったのです。
「あの時、私があんな行動をしなければ」。 そう自分を責めてしまうとき、あなたは自分の行動という「たった一つの要素」に、世界の全責任を押し付けてしまっているのかもしれません。 でも、その出来事は、雨が降るのと同じように、起きるべくして起きた「巨大な連鎖の結果」なのです。あなたの行動は、その巨大なパズルの一片にすぎないのかもしれません。
「わからない」ことを認めると、心に静寂が訪れる
もちろん、社会生活を営む上で「原因と結果」を完全に無視することはできません。ミスをすれば反省し、次は工夫する。それは建設的で健全なステップです。
でも、原因探しが止まらなくなって心が苦しいとき、自分や他人を責めて心の揺れが止まらないとき、そんなときはこの話を思い出してほしいんです。
「原因も、結果も、結局のところは誰にもわからない」
もし、たった一つの明確な原因で説明できることなんて、もしかしたらこの世界には存在しないのだとしたら。 もし、すべてが「無数の要素がその瞬間に重なり合って起きた、避けることのできない現れ」なのだとしたら。 自分を裁き、他人を憎むことに、どれほどの意味があるでしょうか。
「なんで、どうして」という嵐が心に吹き荒れたときは、そっとつぶやいてみてください。 「原因はわからない。でも、今はそうなっている。わかってるのはそれだけ」と。
原因探しという、決して軽くなることのない重荷を下ろしたとき、 あなたの心には、雨上がりの空のような、静かで柔らかな穏やかさが戻ってくるはずです。
