
普段、何かを「考える」とき、その思考は「浮かんで」きますよね。
そしてそれを「自分の思考」として捉えて生活してますよね。
「今からこれをこう考えよう」って決めて考え始めるわけじゃないですよね。
当たり前ですがw
でもそれって本当に「自分で考えている」と言えるでしょうか。
「主体的に自分の意思で考えている」と言えるでしょうか。
あるいはそれって本当に「自分の思考」と言えるでしょうか。
アイデアが「浮かぶ」とかイメージが「湧く」とか、
何かを「閃く」とかっていいますよね。
これらの表現、アイデアやイメージに限らず、
実は全ての思考に当てはまるんです。
普段、私たちが何かを「考える」とき、
注意深く観察してみると、あらゆる思考や考えは、
どこかから浮かんでくるか、流れてくるか、突然に閃く、
というのが真実であるということに気がつきます。
本当は私たちは何かを主体的に考えたり
思考したりしているのではなくて、
思考や考えが自分の意思とは関係なく、
浮かんできたり閃いたりしているってことに。
望んでもいないのにひたすら浮かび続けて流れ続ける思考の
その考えている主体、思考をしている主体は
『私(自我意識)』ではない、ということに。
思考ってユーチューブの画面右側に出てくる
「おすすめ動画」みたいだなって思うんです。
一番上にある動画が勝手に次に再生されるか、
または幾つかの選択肢の中から面白そうなタイトルと
サムネを選んでクリックすると、それが再生される。
でも「おすすめ動画」がひとつなのか、いくつかあるのか、
どんなアルゴリズムで、どんなものがリストアップされるのか、
自分ではコントロールできない。
もちろん過去の閲覧履歴とか”いいね”履歴、個人情報の影響で、
ある程度は関連性の高いものが上がってくるんだろうけど。
思考もかなりこれと一緒で、
過去の知識や経験や好みなどによって自分固有の影響はあるけど、
次に何を考えるかってのは、事前に脳内のどっかで勝手に決定されてて、
そのただ浮かんできたものを自分の思考としてキャッチしているか、
または提示された複数の選択肢の中から1つを選んだつもりになっているか、
そのどちらかを一般的には「思考する」
または「考える」というのではないでしょうか。
自我という司令塔が頭にいて、そこからトップダウン的に指令を出して
何かをしたり考えたりする、という直列処理モデルではなく、
厨房 (無意識) に何人もシェフがいてそれぞれに作業や調理をしてるけど、
でもテーブル (意識) に上がってくる料理 (思考) はその中で一番刺激の強いもの、
または注意を引くものが自我意識に上がってくる、っていう並列処理モデル。
思考は思い通りに停止させたりできないですよね。
自分の意思ではコントロールできないですよね。
次の瞬間、自分が何を考えるのか、知る由もないですよね。
何かを思考する時、その直前に、無限にある選択肢の中から
「これについてこう考えよう」と逐一、吟味して選択して、
決定してから思考が始まるわけではないですよね。
ただ浮かんできたものを浮かんできたその通りに考える。
頭に浮かんでこないことは、考えることはできない。
当たり前ですが。
頭に浮かんだことしか、考えることはできないですよね。
そこに自分の意思とか、主体性とか、
選択とかが入り込む余地はないんです。
だって浮かんだことしか考えられなくて、
浮かばないことは考えつきもしないんだから。
そしてそれらは自動的に勝手に浮かぶんだから。
自分の知識や経験や好みの影響を受けた自分特有の思考、
ということはできるかもしれませんが、
自分が選んで決めている、コントロール可能なもの、
とはいえないと思います。
これを自覚することが、心理学でいう
「脱・自己同一化」の第一歩になると思います。
ネドじゅんさんの紹介されてる
「野菜を5つ選ぶ」ワーク (?) も面白いです。
「頭の中に、野菜を5つ、思い浮かべてください、
そのしてどうやってその野菜の名前が頭に浮かんできたのかを
じっくり観察してみてください」という感じです。
トマト、にんじん、玉ねぎ、きゅうり、大根。
こんな感じで5つ野菜をリストアップします。
この野菜5つ、なんでこの野菜が浮かんできたのか、
理由を考えてもきっとわからないですよね。
仮に「苦手な野菜を5つ選んだ」、だとしても、
その「苦手な野菜をセレクトしよう」
っていう思考はどこからやってきたのか。
結局どこまで行っても堂々巡りで、
なんでその野菜を選んだのか、説明できないんです。
これって考えてもわからないんです。
ただひたすら思考を観察し続けて、
根気強く思考と距離を取り続けて、
勝手に思考が浮かぶその瞬間を、
頭の中に自動的に考えが流れ始めるその瞬間を、
辛抱強く根気強く観察するしかないんです。
何度も何度も、自分の頭の中で目撃し続けるんです。
観察し続けるんです。
そして気が付いてみる。
そうすることで徐々にその認識が深まり、最終的にはもう、
そうとしか言えない、という感じになります。
これはいくらでも時間をとって何度でも何度でも繰り返し
深掘りしてみる価値のある大切な気付きだと思います。
思考が思考している、、、という衝撃の事実。
そりゃ考えても分からないワケですよ。
思考が考えてるんだから。
(もし鏡がそこになければ、
目玉が目玉そのものを見ることができないのと同じ理屈ですね。
そして思考を映す鏡はないですもんね)
思考との距離ができてくるにつれて、勝手に浮かんできた思考を
ただ観照しているだけの真我、超意識的存在を感じると思います。
それと同時に腹の底から湧き上がってくる
穏やかな喜びの気泡を感じると思います。
(この体感をこちらで記事にしてみました)
ただこんなふうに思考は自動的で受動的って話をすると
浮かんで当然なのが、「では自由意志は存在しないのか」
という疑問だと思います。
これって「自由」をどう定義するのかによると思うんです。
前述の通りただ自動で勝手に湧いてくる思考も
過去の知識や経験や好みの影響を受けた自分特有の思考なんだとすると
それって「自らに由来する、自らに由る、自由な思考」って
解釈できないこともないですよね。
脱線しましたが、思考との距離ができてくると、
思考が自分では直接コントロールできない
「現象」だとする視点ができてくると、
思考との付き合い方も自然と変わってきますよね。
特に不安な思考やネガティブな発想が浮かんだ時、
思考との距離ができていてそこに巻き込まれずにいられると
「どうしよう…、なんとかしなきゃ…汗」となる代わりに
「あぁ、こんな思考が浮かんでいるなぁ」、
「へぇ、こんなこと考えてるんだねぇ」と
客観的に距離を置いて捉えられるようになります。
すると自然と、不安やネガティブな感情を感じるのは
自己防衛だったり、自分を愛してるっていう証拠なんだね
っていうのが腑に落ちて理解できたりするから、
不安が起きてもただそれをゆったりと客観的に感じて
「そうだね、ありがとう、愛してるよ」って
穏やかに不安を眺め続けていることができるようになります。
同時に、この自我意識が「私が考える私の思考」と主体性を主張し、
あたかも自分が考えたかのようなフリをしてくれるおかげで、
自動で勝手に浮かぶ思考に「私が、私が」と主語を付け加えてくれるおかげで、
あたかも自分がこの世界を体験しているかのように、こんなにもリアルに
この世界を見て、感じて、楽しむことができるんです。
そんなそんなかけがえのない経験もぜんぶ大切な自分の一部。
そう思うとぜんぶ愛しく感じます。。。
今日は自分自身の体験をもとに
「右脳さん・左脳さん」の著者・ネドじゅんさんと、
ヘルメス・シャンブさんの著書「”それ”は在る」に
感銘を受けて書いてみました。
思考の観察、ぜひ実践してみてください。
(なお、犯罪やそれに準ずる行為を推奨または擁護する意図は一切ありません)

