八正道(Arya-Astanga-Marga: アリヤ・アッタンギカ・マッガ:聖なる八つの道)とは仏陀が悟りを開いたのち最初に示した初転法輪と呼ばれる説法の一つで、涅槃に至るための正しい道(または、苦から解脱するための生き方)を示した八つの実践項目であり、「四諦」(苦・集・滅・道)の「道諦」に当たる教えと言われています。ちなみに「四諦」とは、「苦しみの原因は渇愛である(集諦)」、「それゆえに渇愛に満ちた人生は苦である(苦諦)」、「それゆえ渇愛を捨て去ることができれば苦を滅することができる(滅諦)」、「そのための八正道である(道諦)」という四つの教えです。
この八正道、いろんな解釈がありますよね。仏陀の最初の説法と言われる「初転法輪」の中で語られたとされる八正道。実はその内容は正確には分かっておらず、後世の経典などによると「四諦」や「中道」とともに説かれたものと言われていますが、その内容や解釈なども様々なようです。仏陀の教えはその死後も弟子たちの記憶暗唱により口伝され、仏陀その人の入滅から数百年を経てのち文章化されたと言われています。
そんなふうに様々な見方や考え方が影響を及ぼしていて、いろんな解釈の仕方があるからこそ、「ちょっと大胆な読み解き方をしても許されるのではないか」なんて思って、以前から感じていた八正道への疑問と違和感と新しい解釈を、ひとつの可能性として、ひとつの意見として、考察してみました。この八正道の解釈をちゃんと実践したらたぶん本当に中道の境地に至れちゃうと経験的側面からも理論的側面からも確信しているので、ご興味のある方はぜひぜひ〜。
<仏教的な『正しさ』『真理』とは>
前置き長くなりましたが、とりあえず八正道(八つの聖なる道)の『正しい』とか『聖なる』ってどういう意味なのか、という前提からお話したいと思います。この部分の定義が以下の解釈を成り立たせる土台になると思うので、大事です。
ここでいう『聖なる正しさ』とは『中道』『無我』『諸行無常』といった『真理』のことと定義したいと思います。
『中道』とは陰と陽の中和・統合されたところ。多面的で多角的な中立的な偏らない見方、ありのまま、二元性の超越、二元性からの脱却、非二元的捉え方、とも言えるかもしれません。どんなものも人間の自我意識が判断を下して善悪などの解釈を加えるではニュートラルなんです。だってそんな判断とか理論とか貴賎とか優劣とか全部人間の思考特有のものだからです。だからあえて思考でポジティブとかネガティブとか考えなければそこには善も悪もないんです。だけど私たちの自我がいいとか悪いとか判断を下すと同時に、いいと悪いが質的にも量的にも同じだけうまれます。そしてそのいいと悪い(陰と陽)は常にバランス関係にあると言えます。たとえば輪ゴムのような輪っかを真横から見たら、直線に見えますよね。そうするとあたかもそこには、「右はじ」と「左はじ」があるように見えますよね。そして右はじがあったらきっと左はじもありますよね。普段私たちが何かを「あれはいい」とか「あれは良くない」とか判断してる時ってきっとこんな感じとも言えるんじゃないでしょうか。でもそれを真横じゃなくて上から眺めてみるとそこには円が見えますよね。+・ーとかポジティブ・ネガティブとか二元的なもの双極的なものってみんなきっとそんな感じだと思うんです。右も左もないんだけど、でも視点次第でどのポイントも右にも左にもなり得る。でもまた視点を変えるとフラットでニュートラルにもなり得る。そしてそのどれもが真実だし、どれもが幻だとも言える。どの角度から眺めるか。どのくらいの範囲を眺めるか。どのくらいの距離で眺めるか。たとえていうなら、そんな感じじゃないでしょうか。だからすべてはニュートラルなんです。私たちの自我がいいとか悪いとかジャッジするその瞬間までは。なので『中道』は『陰と陽の統合』と言い換えることもできると思います。私たちの顕在意識がジャッジして生み出した、いいとか悪いとかの二元的な差異(陰と陽)を、統合(合体)させて中和することによりその陰と陽の二元的『差を取り』除いていくこと、あるいは真我とつながることを通して自然と『差が取れて』いくこと、それが非二元的『差取り(悟り)』なのではないでしょうか。
「陰をネガティブで悪いものとして否定的に見る見方」と「陽をポジティブで良いものとして肯定的に見る見方」、そのどちらもが二元的であるがゆえに分離から生まれた渇愛の元であり、そして私たちの自我意識は生まれつき、生老病死などに代表される様々な物事を二元的に捉えるようにできています。こんな捉え方を、四諦の「苦諦」と「集諦」の解釈の一つとして提案してみたいと思います。「あれは良くてこれは悪い」といった分離を元にした二元的で断定的な判断は、真我からの分離を前提とした、「中道」から少しそれてしまうような想念だと思うからです。そしてその根源的『愛』(= 真我)からの分離が『渇愛』の正体なのではないでしょうか。また『諸行無常』である以上絶対的な善や悪といった価値観もまた存在し得ず常に移ろうにも関わらず、自我が「プラスに感じることは肯定的に捉えてもっと欲しがり(三毒の煩悩のうちの「貪欲」)」、「マイナスに感じることは否定的に捉えて避けようとする(三毒の煩悩のうちの「瞋恚(しんに)」)」ことにより欲と執着が生みだされ、本来は無二である真我との根本的な分離感をうみ(三毒の煩悩のうちの「無明」)、またさらに自分の一部(多くの場合それは陰の部分)を否定することにより自分自身とも心理的分離感を作り出す。それが欠乏感や渇望感になり満たされなさやさらなる渇きを生むから、またさらに欲しがり執着しさらなる苦しみを生み出すんですね。それゆえに陰陽の真理を知り中道に至ることが苦しみを滅するための具体的な方法になると言っているのが「滅諦」で、その中道の境地に至るための具体的な方法を解説しているのが「道諦」である、と言えると思います。ちなみにその中道について具体的に述べているのが以下に出てくる『一の正見』と『六の正精進』です。
そしてもう一つの『真理』、それは「私たちの自我には実体がない」という『無我』の真理。「私」という主語が薄く軽くなっていわゆるほぼ無我の状態でいても、普段と同じように肉体は生活を営み穏やかな日常は続いていくんですが、それらは「私」という自我が「する」のではなく、「この身体に起こっては過ぎ去っていく出来事」という感覚として捉えられると思います。「出来事」を「体験」として捉える個の意識が薄い、という言い方もできるでしょうか。個人という感覚があまりないので、何か出来事が起きてもそれは主体的・能動的体験ではなく、それゆえに執着も軽くなる、という感じでしょうか。この『無我』に感覚を慣らしていくための実践的方法を紹介しているのが『二の正思惟』『三の正語』『四の正業』『五の正命』そして『七の正念』です。ちなみに人によるっぽいですが、『中道の境地』を見出すことで自然と『無我』を体感できる人もいると思います。あるいはまれに何らかの理由で『無我の境地』に至って、そこから『中道の境地』に至る人もいると思います。つまり『無我』も『中道(陰陽統合)』も同じことの別の側面であってどちらからアプローチしてもたどり着くところは同じ、ということなんだと思います。
「私たちの自我には実体がない」ってあたりに関しては「受動意識仮説」などと呼ばれていて、科学的にも分析されて検証が進んでいるようです。(すごいですよね〜。仏陀の説いた教えの科学的根拠が示される時代)
以上を踏まえて八正道を見直してみると、以下のような見方ができると思います。あくまでも一つの意見、一つの解釈、ということで。
一、正見:目に映るそのままに「ありのまま」をみる、ということ。非二元的捉え方、中道的、陰と陽が中和・統合された見方、と言い換えることもできるかもしれません。そのためのプロセスとして、多面的に多角的に物事を捉える、という表現もできると思います。目に映る対象をシンボル化しないでそのままニュートラルに見てはじめて、その対象のありのままを見た、といえるのではないでしょうか。
私たちは普段、いろんなものを比較して判断して「あれは良くてこれは良くない」ってジャッジしますよね。実はそういうふうに相手や対象をジャッジしてる時って、その対象の一部分しか見えてないんです。たとえば誰かの一つの行為や一つの側面を見て、「あの人はいい人だ」とか「嫌な奴だ」とかジャッジすることってありますよね。そゆ時ってその相手の一部を見てあたかもそれがその人のすべて、みたいな感覚になりますよね。「あのひとはいつも明るくて元気で前向き」とか「あのひとはいつも暗くて素っ気なくて感じ悪いなぁ」とか、思ったことあると思うんです。でもどんな人でも「親切と意地悪」「明晰さと愚鈍さ」「明るさと暗さ」「得意と不得意」「気前の良さとケチさ」「几帳面さと大雑把さ」「真面目さとだらしなさ」などなどをすべてを持ち合わせているのが人間じゃないでしょうか。どちらか片方だけの人間なんていないし、「いつも」明るい人間なんていないと思うんです。どんな性質も持ち合わせていて、相手によって状況によって見せる顔も態度も気分も変わってくるのが自然だと思います。だから「ありのままの自分を認めて受け入れて欲しい」っていう時、それって「自分のいい面も悪い面も全部受け入れて欲しい、アップダウンも無条件に受け入れて欲しい」ってことですよね。
また別の例えをするなら、坂道があったらのぼり坂と下り坂は必ず同じ距離だけ存在していますよね。でも坂道はただの坂道で、上から見下ろすか下から見上げるかで感じ方が変わって来るだけなのかもしれないですよね。バランスのとれた視点を保つためには、片面的な解釈や決めつけや思い込みや先入観を取り除いて、坂道はニュートラルでありそれと同時にポジティブもネガティブも同じだけ兼ね備えている、という坂道そのものの「ありのまま」を見ること。坂道にはいいも悪いもないんだけど仮にあなたの自我意識に”苦しいのぼり坂”が認識されるならそれと同じだけの”楽な下り坂”もある。そして”のぼり坂”もまた本来はニュートラルであり、もしそこにプラス面があるなら同様にマイナス面もあり、全く同じことが”下り坂”についても言える、ということを前提に見ること。それが「物事をありのまま中道的に見る」ということなんだと思います。
厳しい修行を聖なるものと決めつけて崇める必要もなければ、快楽を邪なものと決めつけて避ける必要もないんです。それらは単にそうあるだけで、そこに貴賎とか優劣とかはないんだけれど、でも同時に陰であり陽であり、陰極まれば陽となり陽極まれば陰となる、「苦行と怠惰」はまさにそんな好例として仏教では取り上げられるのだと思います。どちらにも執着することなく或いは否定して避けようとすることもなく、どちらもありだしどちらも尊いと心から思えたらそこには自然とちょうどいい中庸が見つかるだろうし、どちらもありだし尊いと思えたらそこには安らぎと感謝しかないですよね、きっと。だってどっちでも奇跡なんですよ。対象を「ありのままみる」ってそういうことなんだと思います。
二、正思惟:ありのまま、ただ思い、考えること。「身口意の三業」のうちの「意」。マインドフルネスなんかでもよく言われることですが、思考に対してはただ気付いて観察をすれば良い、という考え方ですね。思考や感情は自分ではなく、次から次へと自動的に溢れ出てくるものですよね。でも思考や感情に囚われてドラマの渦中にいる時って、思考や感情との同一化が起こっていて思考や感情に人生をコントロールされて苦しいですよね。欲を離れて怒りを抑えて煩悩を消し去りましょう、みたいな教えも聞いたことがありますが、それは「欲望や怒りや煩悩を感じたり考えたりしないようにしましょう」という教えというよりはむしろ「それらに巻き込まれると思考や感情をありのままにあるがままに観察することが難しくなってしまうから取り扱いに気をつけましょう」という教えなのではないでしょうか。欲も怒りも間違いなく自然の摂理として人間に生まれつき備わっている機能であり大切な一側面であるはずです。にも関わらずそれらを避けて否定することはすなわち自分の一部の否定であり、人間性の一部の否定であり、正見から少し逸れるような考え方であるように思えます。そう考えると、怒りを感じることも欲望を感じることも自然な発露の一環であり否定したり目を背けたりする必要はないのかもしれないですよね。怒りもまたありのままの世界の一部であり、そうあるべくしてそうなっている自然と必然の産物であり、否定したり排除しようとしたりする対象ではないのではないのかもしれないと思います。むしろ怒りなどの感情は自分が握りしめている二元的な想念に気が付かせてくれる無意識からの大切なフィードバックだと思います。否定することなく、執着することなく、ただ気付いていればいい。そう思います。
思考について付け加えるなら、思考って特に、自我や人格や個という感覚を構成する主な要素とも言えると思います。思考がぐるぐる流れなくなるとそれに比例するように徐々に個人という感覚も薄く感じられるようになっていきます。だから正思惟によって思考や感情をありのままに観察できたら「思考とか感情って『自分』じゃないんだ!」って感じられるかと思います。正思惟はその第一歩になると思います。
三、正語:湧いてくる言葉をありのままに伝える、ということ。「身口意の三業」のうちの「口」。喋るという行為一つとっても、真理の一つである『無我』を感じられるようになるとそれは、「私」という主語が「やっている」というよりも「この身体という『場』に、出来事や現象が発露している(起こっている)」という感覚になります。そしてそれら全てにただ気付いているだけという意識になります。そうすると執着やこうするべきといった無縄自縛的とらわれから自由になるので、ただ起こってくることを信頼して味わうだけ、という感覚になります。悪口や粗暴な言葉遣い、嘘や誹謗中傷もまた、もしもそれが起こるのであればそれは自然の摂理として必然的に起こってくることであるがゆえに、変えようとしたりコントロールしようとしたりする必要はなく、ただありのまま湧き出すその言葉にその瞬間にくつろいで楽しんでいればいいのではないでしょうか。ここを少し深掘りするならたとえば嘘や誹謗中傷も、私たちの自我意識が「あれはいいことでこれは悪いこと」とジャッジをするまではニュートラルなんです。そして仮にネガティブな側面が認識されたなら、その瞬間に同じだけのポジティブな側面をも生み出しているんです。誹謗中傷のマイナス面が顕在意識に出てきた瞬間、プラス面も生み出されているんです。そしてその両面を等しく見ない、ということはその出来事をありのままに見ていない、片面しか見ていない、ということになるんです。何度も繰り返しになってしまうんですが、その偏った片面的な捉え方が渇愛の原因であり苦の原因である、と「四諦」は伝えたいんだと思います。ちなみに「身口意」のうち「口」に相当するこの正語が一番実践の難易度が高いように感じます。
四、正業:あらわれてくる行動をそのままありのままにする、ということ。「身口意の三業」のうちの「身」。こちらも上記の正思惟や正語と同じですよね。この身体という場にあらわれている現象をありのまま変えようとすることもなく否定しようとすることもなく、ただ淡々と起こるがままに信じて委ね切る、ということだと思います。こうした「起こり」を観察して行くことにより自我という幻と『無我』という真理に少しずつ脳みそや身体が調整されて行くんだと思います。まさに道(生き方)ですよね。
五、正命:ありのままをありのままに見て思惟し言い動く。それがそのまま正命(ありのままの生き方)になるんだと思います。もし『中道』と『無我』と『諸行無常』が真理であるならば、正しい聖なる道であるならば、どんな出来事ももしそれが起きたのであれば起きるべくしてなるべくしてそうなったのであって、それが自然の摂理であり必然であり、そこには善悪も優劣も損得も貴貧もなくて、それは絶え間ない川の流れのように常に変化して流れ去っていくものですよね、きっと。だから仮にAとBがあったら、「Aであってもいいし、Bであってもいいし、Aでなくてもいいし、Bでなくてもいいし、AとBと両方でもいいし、もしかしたらCでもいいのかもしれない」といったようにすべての可能性をただオープンに楽しむことができるようになると思うんです。だってすべての可能性が、等しく尊くてかけがえのない奇跡なんです。たとえば「あなたという存在がいまこの年のこの日のこの瞬間に、この移動し続けている地球という星の上の宇宙で唯一の位置で、その格好でその髪型でこのブログを読んでいる」という出来事ひとつ取っても、実はそれ、この天地が創造されて以来いままで一度も起こったことがなかった、宇宙が初めて経験する出来事なんだと思いませんか。もしホントにそうならすべてがかけがえのない奇跡ってなりますよね、きっと。だって宇宙始まって以来、最初で最後ですよ。笑
六、正精進:仏教における四正勤(ししょうごん)と呼ばれる修行の一つで、以下の4つにどのように向き合ったらいいのかという実践からなります。以下順に解説してみたいと思います。
a: 「すでに起こった不善」>>> これは過去に起こったネガティブな出来事や経験(不善)のありのままを見つめ直すことにより、その出来事は不善であったと同時に善であり、なるべくしてそうなったのであってそれは完璧な秩序と調和の結果であって少しも変えたり否定したりする必要はないということを探求するという実践。これにより中道にいたり過去に生じた苦しみを消滅させて行くことが可能となります。
b: 「未来に起こる不善」>>> これは未来に起こり得るネガティブな可能性(不善)のありのままを見つめ直し、その可能性のプラスの側面とマイナスの側面を同時に認識することにより、AでもBでもABでもCでもどれも等しく尊いし素晴らしいということに気がつくという実践。これにより未来に起こる不善への過剰な不安を取り除くことが可能となります。
c: 「過去に生じた善」>>> これもまた過去に起こったポジティブな出来事や経験(善)のありのままを見つめ直すことにより、その出来事は善であったと同時に不善であり、なるべくしてそうなったのであってそれは完璧な秩序と調和の結果であって少しも変えたり否定したりする必要はないということを探求するという実践。これにより執着を手放し中道にいたりあらゆる苦しみを消滅させていくことが可能となります。(何故ならば善があれば必ず不善があるからです。それゆえに善を良いことと断じてもっと欲しがって執着する心がなければ、反対に不善を悪いことと断して否定して避けることもなくなり、思考から生み出される二元性が統合・統一・中和されるからです。そうすると思考のノイズが静まりそのぶん『身体』や『場』の『感じ』に気が付きやすくなると思います)
d: 「いまだ生じていない善」:これもまた未来に起こり得るポジティブな出来事(善)のあらゆる可能性をありのまま見つめ直し、その可能性の陰陽両サイドのありのままの真理を同時に認識することにより、起きてくることへの信頼が感じられるので手放しやサレンダーがより促進され、まだ起きていないことへの過度な期待や欲や執着を取り除くことが可能となります。
こうした陰陽統合の取り組みをすると、脳内に「対消滅」という現象が起き、その結果「中道」の境地を体現します。『対消滅』とは素粒子とその反粒子の対が合体して消滅し、 他の素粒子や光子エネルギーに転化すること。 たとえばマイナスのエネルギー(マイナス電荷)をもつ電子と、 プラスのエネルギー(プラス電荷)を持つ陽電子が衝突すると、電子と陽電子が消滅し、それぞれのエネルギーの和と等しいエネルギーを持つ光子に変換される、という物理現象です。
そしてこの対消滅の原理は双極的な感情のエネルギーにも当てはまるんです。 対消滅とともに二元的(双極的)感情が統合されると、その結果として、脳内に中道の境地と光のエネルギーを作り出すことが可能になります。 (光のエネルギーとかいって、文章にするとだいぶ怪しげですね笑) でも真面目に、それはまさに光と愛と感謝が心に溢れまくる、魂が震えるような体験なんです。これをワンネス体験とかって呼ぶのかはわかりませんが、中道の境地に至るとその神秘的な秩序と妙なる調和の存在が体感としてわかるので(なぜ凸や凹がそのようになっているのか、なぜそうでなければならなかったのか)自分の中の凸の部分はもちろん、凹の部分にも『無条件の愛と感謝』を感じられるようになるんです。極端な話、感極まってるときは、床に落ちているゴミとか、飲みかけのペットボトルとか、なんでもないものを見ても、調和というか「これでいいんだ、それはあるべくしてそこにそうあるんだ」という不思議な確信めいたものを感じます。
自分の凹だと思っていた側面ですらそうなるべくしてそうなっていて、そのままのありのままで完璧で、変える必要も否定する必要もないということが実感できるようになるんです。そうすると、ありのままの自分自身をまるごと肯定することができるようになります。それはそのまま自己受容感、自己肯定感、自己愛のアップに直結するように思います。そして自分自身の内で否定して無意識に切り離していた部分とのつながりが回復するので、自分自身との心理的な分離感が解消されます。それってきっとものすごい癒しですよね。
そしてさらに中道の状態で無条件の愛と感謝を感じている時って「ワンネス」とか「大いなるひとつ」とか「源泉」とつながってるって実感できるから、より根源的な分離感が解消されるんだと思います。だから今、強い感情を感じて苦しんでいる人は 大きな大きな華を咲かせるためのタネを育ててる人なんだと思います。だから結局はやっぱり、変えたりコントロールしなきゃいけないものなんてないんですよね。って気付くと、変わることは勝手に変わっていったりしますよね。「頑張って、変えよう、もっと良くならなきゃ」ってしなくなると、変わるべきことは自然に変わっていく。ほんと不思議です。
七、正念:ありのままに気付く、ということ。原語のSamma-Sati は正しい気付きとも訳されるそうです。サティってビパッサナー瞑想で出てくる「気付き(サティ)の瞑想」と同じサティですね。一瞬一瞬の現在の瞬間に気付き続ける、というような意味になると思われます。つまり正念は「諸行無常である今ここに気付き続け意識の光を向け続ける」という風になると思います。マインドフルネスですね。ちなみにサティは日常生活のあらゆるシーンで入れることができるとされていて、肌にシャツが触れる感覚や足の裏の感覚などの皮膚感覚から、聞こえたもの、感じたもの、考えたこと、などなど意識に一番強く現れた感覚に気付き続け、その感覚や思考をジャッジしたりすることなくただ追いかけ続けるという瞑想です。なのでこの正念は、二〜五までの正思惟、正語、正業、正命、それぞれの瞑想バージョン、という感じでしょうか。仮に心が乱れても、その乱れもありのままただ気付き今ここにい続ける、ということではないでしょうか。めっちゃマインドフルネスですよね。
八、正定:ありのままの精神集中、とでも言えるでしょうか。原語のSamma-Samadi は正しい精神集中とも解釈できそうです。静かに座り呼吸などの対象に心を集中させ能動的な作用がなくなった状態がサマーディなんだそうです。日本語だと「三昧」というそうです。この能動的な作用がない状態というのはつまり「私が」という主語のなくなった状態のこと。無我の境地に至るまで集中が高まり精神統一され心の静けさが保たれた状態。そのようなサマーディの状態を目指す瞑想をサマタ瞑想と呼びます。
以上、『新釈・八正道』でした。たぶん要約するとマインドフルネスとヴィパッサナー瞑想と陰陽統合をミックスしたような、非二元と無我を体感するための実践的手引き、って感じでしょうか。仏教に関しては門前の小僧ですが、大筋は外してないと思うんです。涅槃に至るための生き方、日常生活でも全然普通に取り入れられると思うのでぜひ実践してみてください。