はじめに:八正道と「四諦」を新釈(再解釈)する理由
伝統的理解を超えて:口伝と解釈の歴史から生まれる「新しい可能性」
八正道とは
仏陀が悟りを開いたのち最初に示した
初転法輪と呼ばれる説法の一つで
涅槃に至るための正しい道
または
苦から解脱するための生き方を示した
八つの実践項目であり
「四諦」(苦・集・滅・道)の
「道諦」に当たる教えと言われています。
四諦とは
一(集諦):「苦しみの原因は渇愛(=真我との分離、そしてそこから生まれる執着や欲望)である」
二(苦諦):「それゆえに渇愛に満ちた人生の一切は苦である」
三(滅諦):「それゆえ渇愛を捨て去ることができれば苦を滅することができる」
四(道諦):「そのための八正道である」
という四つの教えです。
仏陀の最初の説法のひとつ、八正道。
この八正道、実はその内容は
正確には分かっておらず
様々な解釈があるようです。
後世の経典などによると
「四諦」や「中道」とともに説かれたもの
と言われていますが、
仏陀の教えは
弟子たちの記憶・暗唱により口伝され
仏陀その人の入滅から数百年を経てのち
はじめて文章化されたと言われています。
つまり現在私たちが目にすることのできる
数々の仏教の経典のその全ては
様々な人の見解や個人的な考え方
時には翻訳の都合や
時代や文化的な道徳観などの影響を受けて
様々な解釈がされていると推察できます。
仏陀の言葉一語一句が
そのままが伝わってるとは思えない。
だからこそ、
「ちょっと大胆な読み解き方をしても
許されるのでは」なんて思って
以前から感じていた仏教への疑問と
違和感と新しい解釈を
ひとつの可能性として
ひとつの意見として考察してみました。
この八正道はまさに
「苦しみを滅し涅槃に至るための攻略本」
だと思います。
八正道の前提となる『聖なる正しさ』と『真理』について
仏教的な『正しさ』とは
前置きが長くなりましたが
八正道(八つの聖なる道)の
『聖なる正しさ』とは
どういう意味なのか
という前提からお話したいと思います。
この部分の定義が
以下の解釈を成り立たせる土台になる
大事な部分です。
ここでいう『聖なる正しさ』とは
『中道』
『無我』
『諸行無常』といった
仏教的な『真理』のことと
定義したいと思います。
以下に、それぞれ解説してみたいと思います。
【諸行無常】の真理:
この世の全てのものは常に変化をし
変化しないものはない
という真理です。
私たち日本人には
馴染みの深い考え方だと思います。
四季の移り変わりや
人間の内面的・外面的な要素や
あらゆる出来事や物質、鐘の音ですら
うつろい変化をし続けます。
この世の全てのものは、変化し続ける
つまり、同じ状態を保てない
とも言えると思います。
これは熱力学の第二法則:
エントロピーの増大と同じことを
科学的知識のない2500年前に説いていた
ということになります。
すごいですよね。
【無我】の真理:
これは
「私たちの自我には実体がない」という
『無我』の真理です。
八正道の教えを実践すると
「私」という主語が
薄く軽くなっていくのが実感できます。
それでも今までと同じように
肉体は生活を営み
日常は続いていくんですが
それらは「私」という自我が
「する」のではなく
「この身体に起こっては過ぎ去っていく出来事」
という感覚になります。
「出来事」を「体験」として捉える
個の意識(エゴ)が薄くなる
とも言えるかもしれません。
個人という感覚(エゴ)が薄いので
何か出来事が起きてもそれは
主体的・能動的な体験ではないので
執着や葛藤も軽くなります。
この『無我』に
感覚を慣らしていくための
実践的方法を紹介しているのが
『二の正思惟』
『三の正語』
『四の正業』
『五の正命』そして
『七の正念』です。
なお「私たちの自我には実体がない」
という点に関しては
「受動意識仮説」などと呼ばれていて
科学的にも分析されて
検証が進んでいるようです。
すごいですよね。
仏陀の説いた教えの
科学的根拠が示される時代。
【中道】の真理:
『中道』とは
陰と陽の均衡・統合されたところ。
『今ここ』
『ありのまま』
または非二元的捉え方
とも言えるかもしれません。
この世の全てのものは本来
良くも悪くもない、ニュートラルなんです。
人間の自我意識が
「善い、悪い」と解釈を加えるでは。
なぜなら
倫理とか判断とか理論とか優・劣とか
全部人間の思考特有のものだからです。
だからあえて
思考で良いとか悪いとか考えなければ
そこには善も悪もないんです。
だけど私たちの自我が
「良い」とか「悪い」とか
判断を下すと同時に
思考の中には「良い」と「悪い」が
質的にも量的にも同じだけ発生します。
そしてその良いと悪い(陰と陽)は
常にバランス関係にあります。
物理的な作用と反作用は
常に釣り合った力同士であるように。
手で壁を押せば
全く同じ力で押し返されるように。
コインがあれば
表と裏の面積は常に同じであるように。
坂道があれば
上りと下りの長さは常に同じであるように。
でも片方に強く意識が向いたら
その分だけ反対側には気が付きにくくなる。
そういうふうにできてるみたいです。
何かを悪いことって思うと
そのいい側面には気が付き難くなるように。
誰かを好きになればなるほど
その分その人の悪い側面が
目に入らなくなるように。
そういうふうにできてるみたいです。
そんな時まるで
善か悪か
正しいか間違いか
どちらか二者択一のように
見えてしまいます。
でも例えば輪ゴムのような輪っかを
真横から見たら、直線に見えますよね。
そうするとあたかもそこには
「右はじ」と「左はじ」が
あるように見えます。
普段私たちが何かの善悪や優劣を
判断してる時って
こんな感じとも言えると思います。
でもそれを真横じゃなくて
上から眺めてみると
そこには円が見えると思います。
➕・➖とかポジティブ・ネガティブとか
二元的なものって
みんなそんな感じだと思うんです。
右も左もないんだけど
でも視点次第で
どのポイントも右にも左にもなり得る。
でもまた視点を変えると
ニュートラルにもなり得る。
そしてそのどれもが真実だし
どれもが幻だとも言える。
どの角度から眺めるか。
どのくらいの範囲を眺めるか。
どのくらいの距離で眺めるか。
例えていうなら
そんな感じじゃないでしょうか。
だからすべては本来はニュートラルなんです。
私たちの自我が
良いとか悪いとかジャッジするその瞬間までは。
なので『中道』は『陰と陽の統合』と
言い換えることもできると思います。
私たちの表層意識のジャッジが生み出した
「善悪などの二元的な差異(陰と陽)」を
統合させて中和することにより
その陰と陽の二元的な
『差を取り』除いていくこと
あるいは真我とつながることを通して
自然と『差が取れて』いくこと
それが非二元的『差取り』
なのではないでしょうか。
【四諦の新解釈】(「渇愛」の正体)
そしてこの
「二元的な視点」と
「ワンネス的な視点」で
八正道のイントロともいうべき
「四諦」を読み解き直してみると
「陰を、ネガティブで悪いものとして
否定的に見る捉え方」と
「陽を、ポジティブで良いものとして
肯定的に見る捉え方」。
この二元的な視点が、
分離から生まれた
渇愛の根本的な原因と
言えるのではないでしょうか。
私たちの自我意識は生まれつき
生老病死などに代表される様々な物事を
二元的に捉えるようにできています。
より正確に言えば
私たち人間の知覚は
「区別や比較のある世界
アンバランスで非対称な世界」を
積極的に知覚するようにできているので
そうでない世界には
なかなか気が付けません。
こんな捉え方を
四諦の「苦諦」と「集諦」の
解釈の一つとして提案してみたいと思います。
「病は苦しくて死は悲しい」
といった解釈や判断は
私たちの自我意識にとっては
当たり前ですが
これは自己と真我(=『愛』)との
分離を前提とした
二元的で断片的な解釈です。
そしてその根源的な
『愛』からの分離が
『渇愛』の正体ではないでしょうか。
また『諸行無常』である以上
絶対的な善や悪といった
価値観もまた存在し得ず
常に移ろうにも関わらず
「自我がプラスに感じることは
肯定的に捉えてもっと欲しがり
(三毒の煩悩のうちの「貪欲」)」
+
「マイナスに感じることは
否定的に捉えて避けようとする
(三毒の煩悩のうちの「瞋恚)」
↓
このことにより
「欲と執着」が生みだされ
本来は無二である真我との
根本的な分離感をうみ
(三毒の煩悩のうちの「無明」)
↓
またさらに自分の一部
(多くの場合それは負の部分)を
否定することにより
自分自身とも心理的分離感を作り出す。
↓
これが欠乏感や渇望感になり
満たされなさやさらなる渇きを生み
またさらに欲しがり、執着し
更なる苦しみを生むという循環を作り出す。
それゆえに
陰と陽の真理を知り中道に至ることが
苦しみを滅するための具体的な方法になる
と言っているのが「滅諦」で
その中道の境地に至るための
具体的な方法を解説しているのが
「道諦」である、と言えると思います。
ちなみにその中道について
具体的に述べているのが以下に出てくる
『一の正見』と
『六の正精進』です。
以上を踏まえて八正道を見直してみると
以下のような見方ができると思います。
あくまでも一つの意見
一つの解釈ということで。
新釈・八正道の8つの実践項目
一、正見(しょうけん):ニュートラル視点で「ありのまま」を見る
ニュートラルな「ありのまま」をみる
ということ。
目に映る対象をシンボル化しないで
そのままを見る
とも言えるかもしれません。
非二元的捉え方
中道的
陰陽統合された見方
と言い換えることも
できるかもしれません。
私たちは普段
いろんなものを比較して判断して
「あれは良くてこれは良くない」
ってジャッジしますよね。
あるいは
「これはこういうもの」
「これはこうあるべき」みたいな
固定観念で物事を判断しますよね。
実はそういうふうに
相手や対象をジャッジしてる時って
その対象の一部分しか見えてないんです。
正見はこの「ニュートラル視点」で
目に映る対象を「ありのままに」
見ることが鍵になると思うんです。
(「ニュートラル視点」については
先述の「中道」の部分でも触れていますが)
以下に順番に説明してみます。 <ニュートラル視点> 誰かの一つの行為や
一つの側面を見て
「あの人はいい人」とか
「嫌な人」とか
判断することってありますよね。
そんな時って、その相手の一部を見て
あたかもそれがその人のすべて
みたいな感覚になりますよね。
「あのひとはいつも明るくて元気で前向き」
とか
「あのひとはいつも暗くて素っ気なくて感じ悪い」
とか、誰しも思ったことあると思うんです。
でも、当たり前ですが人間って
そんな一面的ではないと思うんです。
どんな人でも長所や欠点がありますよね。 どんな人でも
「親切と意地悪」
「明晰さと愚鈍さ」
「明るさと暗さ」
「得意分野と不得意分野」
「気前の良さと吝嗇さ」
「几帳面さと大雑把さ」
「真面目さとだらしなさ」などなどを
すべてを持ち合わせているのが
人間じゃないでしょうか。
どちらか片方だけの人間なんていないし
「いつも」明るい人間なんて
いないと思うんです。
どんな性質も持ち合わせていて
時と場合によって
相手によって
状況によって
見せる顔も態度も気分も
変わってくるのが自然だと思います。
陰も陽も
ともに兼ね備えている存在として
相手も自分も、公平にありのままを見る
(つまり、誰しもみんな
「親切な側面も、親切じゃない側面も
意地悪な側面も、意地悪じゃない側面も」
全部を兼ね備えているという見方)。
と同時に解釈や判断を加えず
ニュートラルな視点でありのままを見る
(つまり、「親切」にも「不親切」にも
共に+・ー両方の側面が同じだけあって
「意地悪」にも「そうじゃ無いこと」にも
どちらにも同様に、+・ー両方の側面が
等しく備わっている。
そしてそれらそれぞれの+・ーにもまた
それぞれの+・ーが等しくあって
それはどこまでも続いていく
という捉え方)。
そんな意識的な捉え方が
『正見』的見方を鍛えるのかもしれません。 これを別の例えに置き換えてみます。 坂道って、下から見るか、上から見るか どちらから見るかで、上り坂になったり 下り坂になったりしますよね。 でも上り坂と下り坂は 必ず同じ距離だけ存在していますよね。 バランスのとれた視点を保つためには 一方的・片面的な解釈や決めつけ 思い込みや先入観を取り除いて 坂道自体は本質はニュートラル (ただの地面の傾斜) である という坂道そのものの「ありのまま」 を見ること。 またニュートラルであると同時に 人間の視点次第で 上りにも下りにもなり得る ということを知ること。 上り坂を見て この坂は苦しい とだけ判断するのは断片的で一方的です。 上り坂には ーの側面と+の側面が等しくある。 同時に下り坂にも下り坂の +・ーがそれぞれある。 それが、1つの坂道をありのままに見る ということなんだと思います。 厳しい修行を聖なるものと決めつけて 崇める必要もなければ 快楽を邪なものと決めつけて 避ける必要もないんです。 それらは単にそうあるだけで そこに貴賎や優劣はありません。 でも同時に陰であり陽であり 陰極まれば陽となり陽極まれば陰となる。 「苦行と快楽」は まさにそんな好例として 仏教では取り上げられるのだと思います。 どちらにも執着することなく 或いは否定して避けようとすることもなく どちらもアリだし尊いと 心から思えたらそこには 自然とちょうどいい中道が見つかるはずです。 そこには、 安らぎと感謝があります。 だってどっちでも奇跡なんだから。 対象を「ありのままみる」って そういうことなんだと思います。 この対象をありのまま見るという 「非二元的」捉え方が身につくと 善悪や正誤や優劣といった 二元論的な幻想に惑わされることなく ありのままの世界を捉えることができるので 例えば
– 他人と自分を比べて嫉妬したり劣等感を感じたり -「正しい・間違い」にとらわれて自他を裁いたり責めたり – 強い愛憎を感じたり -「べき・べきじゃない」といった葛藤を感じたり – 何かに執着したり – 理想と現実のギャップに悩んだり – 思い通りにならない憤りを感じたり といったことが 徐々に少なくなっていくのを 実感できるはずです。 たったそれだけで 心は子供の頃のように軽くなります。 頭でごちゃごちゃ 考えなくてもよかったあの頃のように。
二、正思惟(しょうしゆい):湧き出る思考や感情をただ観察する
三、正語(しょうご):主語を手放し、起こる言葉を味わう
四、正業(しょうごう):身体にあらわれる現象を信じて委ねる
五、正命(しょうみょう):すべての可能性をオープンに楽しむ生き方
六、正精進(しょうしょうじん):陰陽統合と脳内「対消滅」による無条件の愛
七、正念(しょうねん):今ここに意識の光を向け続けるマインドフルネス
八、正定(しょうじょう):「私」という主語が消える真の精神集中(サマーディ)
まとめ:日常の中で非二元と無我を体感する
以上、『新釈・八正道』でした。
たぶんマインドフルネスと
ヴィパッサナー瞑想と
陰と陽の統合をミックスしたような
非二元と無我を体感するための実践的な手引き
とも言えると思います。
拙者は仏教に関しては門前の小僧ですが
大筋は外してないと思うんです。
仏陀が残した
苦しみを滅し、
涅槃に至るための生き方
ぜひ実践してみてください。

