新釈・八正道:お釈迦様が本当に伝えたかったこと

 

はじめに:八正道と「四諦」を新釈(再解釈)する理由

伝統的理解を超えて:口伝と解釈の歴史から生まれる「新しい可能性」

八正道はっしょうどうとは

仏陀が悟りを開いたのち最初に示した
初転法輪しょてんぼうりんと呼ばれる説法の一つで

涅槃ねはんに至るための正しい道
または
苦から解脱げだつするための生き方を示した
八つの実践項目であり

四諦したい」(苦・集・滅・道)の
道諦どうたい」に当たる教えと言われています。

四諦とは

一(集諦じったい):「苦しみの原因は渇愛(=真我との分離、そしてそこから生まれる執着や欲望)である」

二(苦諦くたい):「それゆえに渇愛に満ちた人生の一切は苦である」

三(滅諦めったい):「それゆえ渇愛を捨て去ることができれば苦を滅することができる」

四(道諦どうたい):「そのための八正道である」

という四つの教えです。

仏陀の最初の説法のひとつ、八正道。
この八正道、実はその内容は
正確には分かっておらず
様々な解釈があるようです。

後世の経典などによると
「四諦」や「中道」とともに説かれたもの
と言われていますが、

仏陀の教えは
弟子たちの記憶・暗唱により口伝され
仏陀その人の入滅から数百年を経てのち
はじめて文章化されたと言われています。

つまり現在私たちが目にすることのできる
数々の仏教の経典のその全ては
様々な人の見解や個人的な考え方
時には翻訳の都合や
時代や文化的な道徳観などの影響を受けて
様々な解釈がされていると推察できます。

仏陀の言葉一語一句が
そのままが伝わってるとは思えない。

だからこそ、
「ちょっと大胆な読み解き方をしても
許されるのでは」なんて思って
以前から感じていた仏教への疑問と
違和感と新しい解釈を
ひとつの可能性として
ひとつの意見として考察してみました。

この八正道はまさに
「苦しみを滅し涅槃に至るための攻略本」
だと思います。

八正道の前提となる『聖なる正しさ』と『真理』について

仏教的な『正しさ』とは

前置きが長くなりましたが
八正道(八つの聖なる道)の
『聖なる正しさ』とは
どういう意味なのか
という前提からお話したいと思います。

この部分の定義が
以下の解釈を成り立たせる土台になる
大事な部分です。

ここでいう『聖なる正しさ』とは
『中道』
『無我』
『諸行無常』といった

仏教的な『真理』のことと
定義したいと思います。

以下に、それぞれ解説してみたいと思います。

【諸行無常】の真理:

この世の全てのものは常に変化をし
変化しないものはない
という真理です。

私たち日本人には
馴染みの深い考え方だと思います。

四季の移り変わりや
人間の内面的・外面的な要素や
あらゆる出来事や物質、鐘の音ですら
うつろい変化をし続けます。

この世の全てのものは、変化し続ける
つまり、同じ状態を保てない
とも言えると思います。

これは熱力学の第二法則:
エントロピーの増大と同じことを
科学的知識のない2500年前に説いていた
ということになります。
すごいですよね。

【無我】の真理:

これは
「私たちの自我には実体がない」という
無我』の真理です。

八正道の教えを実践すると
「私」という主語が
薄く軽くなっていくのが実感できます。

それでも今までと同じように
肉体は生活を営み
日常は続いていくんですが

それらは「私」という自我が
「する」のではなく
「この身体に起こっては過ぎ去っていく出来事」
という感覚になります。

「出来事」を「体験」として捉える
個の意識(エゴ)が薄くなる
とも言えるかもしれません。

個人という感覚(エゴ)が薄いので
何か出来事が起きてもそれは
主体的・能動的な体験ではないので
執着や葛藤も軽くなります。

この『無我』に
感覚を慣らしていくための
実践的方法を紹介しているのが
『二の正思惟』
『三の正語』
『四の正業』
『五の正命』そして
『七の正念』です。

なお「私たちの自我には実体がない」
という点に関しては
「受動意識仮説」などと呼ばれていて
科学的にも分析されて
検証が進んでいるようです。

すごいですよね。
仏陀の説いた教えの
科学的根拠が示される時代。

【中道】の真理:

『中道』とは
陰と陽の均衡・統合されたところ。

『今ここ』
『ありのまま』
または非二元的捉え方
とも言えるかもしれません。

この世の全てのものは本来
良くも悪くもない、ニュートラルなんです。

人間の自我意識が
「善い、悪い」と解釈を加えるでは。

なぜなら
倫理とか判断とか理論とか優・劣とか
全部人間の思考特有のものだからです。
だからあえて
思考で良いとか悪いとか考えなければ
そこには善も悪もないんです。

だけど私たちの自我が
「良い」とか「悪い」とか
判断を下すと同時に
思考の中には「良い」と「悪い」が
質的にも量的にも同じだけ発生します。

そしてその良いと悪い(陰と陽)は
常にバランス関係にあります。

物理的な作用と反作用は
常に釣り合った力同士であるように。

手で壁を押せば
全く同じ力で押し返されるように。

コインがあれば
表と裏の面積は常に同じであるように。

坂道があれば
上りと下りの長さは常に同じであるように。

でも片方に強く意識が向いたら
その分だけ反対側には気が付きにくくなる。
そういうふうにできてるみたいです。

何かを悪いことって思うと
そのいい側面には気が付き難くなるように。

誰かを好きになればなるほど
その分その人の悪い側面が
目に入らなくなるように。

そういうふうにできてるみたいです。

そんな時まるで
善か悪か
正しいか間違いか
どちらか二者択一のように
見えてしまいます。

でも例えば輪ゴムのような輪っかを
真横から見たら、直線に見えますよね。
そうするとあたかもそこには
「右はじ」と「左はじ」が
あるように見えます。

普段私たちが何かの善悪や優劣を
判断してる時って
こんな感じとも言えると思います。

でもそれを真横じゃなくて
上から眺めてみると
そこには円が見えると思います。

➕・➖とかポジティブ・ネガティブとか
二元的なものって
みんなそんな感じだと思うんです。

右も左もないんだけど
でも視点次第で
どのポイントも右にも左にもなり得る。

でもまた視点を変えると
ニュートラルにもなり得る。

そしてそのどれもが真実だし
どれもが幻だとも言える。

どの角度から眺めるか。
どのくらいの範囲を眺めるか。
どのくらいの距離で眺めるか。

例えていうなら
そんな感じじゃないでしょうか。
だからすべては本来はニュートラルなんです。

私たちの自我が
良いとか悪いとかジャッジするその瞬間までは。

なので『中道』は『陰と陽の統合』と
言い換えることもできると思います。

私たちの表層意識のジャッジが生み出した
「善悪などの二元的な差異(陰と陽)」を
統合させて中和することにより
その陰と陽の二元的な
取り・・』除いていくこと

あるいは真我とつながることを通して
自然と『差が取れて』いくこと

それが非二元的『差取さと
なのではないでしょうか。

【四諦の新解釈】(「渇愛」の正体)

そしてこの
「二元的な視点」と
「ワンネス的な視点」で
八正道のイントロともいうべき
「四諦」を読み解き直してみると

「陰を、ネガティブで悪いものとして
否定的に見る捉え方」と

「陽を、ポジティブで良いものとして
肯定的に見る捉え方」。

この二元的な視点が、
分離から生まれた
渇愛の根本的な原因と
言えるのではないでしょうか。

私たちの自我意識は生まれつき
生老病死などに代表される様々な物事を
二元的に捉えるようにできています。

より正確に言えば
私たち人間の知覚は
「区別や比較のある世界
アンバランスで非対称な世界」を
積極的に知覚するようにできているので
そうでない世界には
なかなか気が付けません。

こんな捉え方を
四諦の「苦諦」と「集諦」の
解釈の一つとして提案してみたいと思います。

「病は苦しくて死は悲しい」
といった解釈や判断は
私たちの自我意識にとっては
当たり前ですが
これは自己と真我(=『愛』)との
分離を前提とした
二元的で断片的な解釈です。

そしてその根源的な
『愛』からの分離が
『渇愛』の正体ではないでしょうか。

また『諸行無常』である以上
絶対的な善や悪といった
価値観もまた存在し得ず
常に移ろうにも関わらず

「自我がプラスに感じることは
肯定的に捉えてもっと欲しがり
(三毒の煩悩のうちの「貪欲」)」
   +
「マイナスに感じることは
否定的に捉えて避けようとする
(三毒の煩悩のうちの「瞋恚しんに)」
   ↓
このことにより
「欲と執着」が生みだされ
本来は無二である真我との
根本的な分離感をうみ
(三毒の煩悩のうちの「無明」)
   ↓
またさらに自分の一部
(多くの場合それは負の部分)を
否定することにより
自分自身とも心理的分離感を作り出す。
   ↓
これが欠乏感や渇望感になり
満たされなさやさらなる渇きを生み
またさらに欲しがり、執着し
更なる苦しみを生むという循環を作り出す。

それゆえに
陰と陽の真理を知り中道に至ることが
苦しみを滅するための具体的な方法になる
と言っているのが「滅諦」で

その中道の境地に至るための
具体的な方法を解説しているのが
「道諦」である、と言えると思います。

ちなみにその中道について
具体的に述べているのが以下に出てくる
『一の正見しょうけん』と
『六の正精進しょうしょうじん』です。

以上を踏まえて八正道を見直してみると
以下のような見方ができると思います。

あくまでも一つの意見
一つの解釈ということで。

新釈・八正道の8つの実践項目

一、正見(しょうけん):ニュートラル視点で「ありのまま」を見る
目に映るそのままに解釈や判断を加えずに
ニュートラルな「ありのまま」をみる
ということ。
目に映る対象をシンボル化しないで
そのままを見る
とも言えるかもしれません。
非二元的捉え方
中道的
陰陽統合された見方
と言い換えることも
できるかもしれません。
私たちは普段
いろんなものを比較して判断して
「あれは良くてこれは良くない」
ってジャッジしますよね。
あるいは
「これはこういうもの」
「これはこうあるべき」みたいな
固定観念で物事を判断しますよね。
実はそういうふうに
相手や対象をジャッジしてる時って
その対象の一部分しか見えてないんです。
正見はこの「ニュートラル視点」で
目に映る対象を「ありのままに」
見ることが鍵になると思うんです。
(「ニュートラル視点」については
先述の「中道」の部分でも触れていますが)
以下に順番に説明してみます。 <ニュートラル視点> 誰かの一つの行為や
一つの側面を見て
「あの人はいい人」とか
「嫌な人」とか
判断することってありますよね。
そんな時って、その相手の一部を見て
あたかもそれがその人のすべて
みたいな感覚になりますよね。
「あのひとはいつも明るくて元気で前向き」
とか
「あのひとはいつも暗くて素っ気なくて感じ悪い」
とか、誰しも思ったことあると思うんです。
でも、当たり前ですが人間って
そんな一面的ではないと思うんです。
どんな人でも長所や欠点がありますよね。 どんな人でも
「親切と意地悪」
「明晰さと愚鈍さ」
「明るさと暗さ」
「得意分野と不得意分野」
「気前の良さと吝嗇さ」
「几帳面さと大雑把さ」
「真面目さとだらしなさ」などなどを
すべてを持ち合わせているのが
人間じゃないでしょうか。
どちらか片方だけの人間なんていないし
「いつも」明るい人間なんて
いないと思うんです。
どんな性質も持ち合わせていて
時と場合によって
相手によって
状況によって
見せる顔も態度も気分も
変わってくるのが自然だと思います。
陰も陽も
ともに兼ね備えている存在として
相手も自分も、公平にありのままを見る
(つまり、誰しもみんな
「親切な側面も、親切じゃない側面も
意地悪な側面も、意地悪じゃない側面も」
全部を兼ね備えているという見方)。
と同時に解釈や判断を加えず
ニュートラルな視点でありのままを見る
(つまり、「親切」にも「不親切」にも
共に+・ー両方の側面が同じだけあって
「意地悪」にも「そうじゃ無いこと」にも
どちらにも同様に、+・ー両方の側面が
等しく備わっている。
そしてそれらそれぞれの+・ーにもまた
それぞれの+・ーが等しくあって
それはどこまでも続いていく
という捉え方)。
そんな意識的な捉え方が
『正見』的見方を鍛えるのかもしれません。 これを別の例えに置き換えてみます。 坂道って、下から見るか、上から見るか どちらから見るかで、上り坂になったり 下り坂になったりしますよね。 でも上り坂と下り坂は 必ず同じ距離だけ存在していますよね。 バランスのとれた視点を保つためには 一方的・片面的な解釈や決めつけ 思い込みや先入観を取り除いて 坂道自体は本質はニュートラル (ただの地面の傾斜) である という坂道そのものの「ありのまま」 を見ること。 またニュートラルであると同時に 人間の視点次第で 上りにも下りにもなり得る ということを知ること。 上り坂を見て この坂は苦しい とだけ判断するのは断片的で一方的です。 上り坂には ーの側面と+の側面が等しくある。 同時に下り坂にも下り坂の +・ーがそれぞれある。 それが、1つの坂道をありのままに見る ということなんだと思います。 厳しい修行を聖なるものと決めつけて 崇める必要もなければ 快楽を邪なものと決めつけて 避ける必要もないんです。 それらは単にそうあるだけで そこに貴賎や優劣はありません。 でも同時に陰であり陽であり 陰極まれば陽となり陽極まれば陰となる。 「苦行と快楽」は まさにそんな好例として 仏教では取り上げられるのだと思います。 どちらにも執着することなく 或いは否定して避けようとすることもなく どちらもアリだし尊いと 心から思えたらそこには 自然とちょうどいい中道が見つかるはずです。 そこには、 安らぎと感謝があります。 だってどっちでも奇跡なんだから。 対象を「ありのままみる」って そういうことなんだと思います。 この対象をありのまま見るという 「非二元的」捉え方が身につくと 善悪や正誤や優劣といった 二元論的な幻想に惑わされることなく ありのままの世界を捉えることができるので 例えば
– 他人と自分を比べて嫉妬したり劣等感を感じたり -「正しい・間違い」にとらわれて自他を裁いたり責めたり – 強い愛憎を感じたり -「べき・べきじゃない」といった葛藤を感じたり – 何かに執着したり – 理想と現実のギャップに悩んだり – 思い通りにならない憤りを感じたり といったことが 徐々に少なくなっていくのを 実感できるはずです。 たったそれだけで 心は子供の頃のように軽くなります。 頭でごちゃごちゃ 考えなくてもよかったあの頃のように。
二、正思惟(しょうしゆい):湧き出る思考や感情をただ観察する
ありのまま、ただ湧き上がるままに思い 浮かぶまま考えること。 「身口意の三業」のうちの「意」。 マインドフルネスなどでも言われますが、 思考に対してはただ気付いて観察をすれば良い という考え方です。 思考や感情って自分の意思とは関係なく 止めることは出来ないし 次から次へと自動的に溢れ出てきます。 そして思考や感情に囚われたり 影響されている時って苦しいですよね。 そのせいで人は、怒りや悲しみを抑圧し 苦しみやストレスを消し去りたい と思ってしまいます。 でも怒り悲しみも間違いなく 自然の摂理として 人間に生まれつき備わっている かけがえのない機能であり 大切な一側面であるはずです。 それらを避けて否定することは すなわち自分の一部を否定してることに ならないでしょうか。 それは人間性の一部の否定であり 正見から少し逸れるような考え方で あるように思えます。 怒りを感じることも 欲望を感じることも 自然な発露の一環であり 否定したり目を背けたりする必要は ないのかもしれません。 怒りもまた ありのままの世界の一部であり そうあるべくしてそうなっている 自然と必然の産物であり 否定したり排除しようとしたりする対象では ないのではないのかもしれないと思います。 むしろ怒りなどの感情は 自分が握りしめている 二元的な想念に気が付かせてくれる 無意識からの大切なフィードバック。 否定することなく 執着することなく ただ気付いていればいい。 思考について付け加えるなら 思考って特に 自我や人格や個という感覚を構成する 主な要素とも言えると思います。 思考がぐるぐる流れなくなると それに比例するように 徐々に個人という感覚も 薄く感じられるようになっていきます。 「私」という主語をつける思考がないと 物事を「わたくしごと」「個人の体験」にせずに 出来事を出来事のまま 観察することができるようになってきます。 だから正思惟によって 思考や感情をありのままに観察できたら 徐々に「思考とか感情は『自分』ではない」 ってリアルに感じられるようになると思います。 正思惟はその第一歩になると思います。
三、正語(しょうご):主語を手放し、起こる言葉を味わう
湧いてくる言葉をありのままに伝える ということ。 「身口意しんくいの三業さんごう」 のうちの「口」。 喋るという行為一つとっても それは「私」という主語が 「やっている」というよりも 「この身体という『場』に 出来事や現象が発露している (起こっている)」という 感覚になると思います。 そしてそれら全てにただ気付いているだけ という意識。 そうすると執着や「こうするべき」 といった囚われから自由になるので ただ起こってくることを信頼して 味わうだけ、という感覚になります。 例えば、 悪口や粗暴な言葉遣い 嘘や誹謗中傷もまた もしもそれが起こるのであれば それは自然の摂理として 必然的に起こってくることで 変えたりコントロールする必要はなく ただありのまま湧き出す その言葉に その瞬間に くつろいで感謝していれば いいのではないでしょうか。 ここを少し深掘りするなら たとえば嘘や誹謗中傷も 私たちの自我意識が 「あれはいいことでこれは悪いこと」 とジャッジをするまでは ニュートラルなんです。 仮にネガティブな側面が認識されたなら その瞬間に同じだけの ポジティブな側面を頭の中に 生み出しているハズなんです。 誹謗中傷のマイナス面が 顕在意識に出てきた瞬間 プラス面も生み出されているんです。 そしてその両面を等しく見ない ということはつまり片面しか見ていない つまり その出来事をありのままに見ていない ということになるんです。 その偏った片面的な捉え方が 渇愛の原因であり苦の原因である と「四諦」は伝えたいんだと思います。 個人的には「身口意」のうち 「口」に相当するこの正語が 一番実践の難易度が高いように感じます。
四、正業(しょうごう):身体にあらわれる現象を信じて委ねる
あらわれてくる行動を そのままありのままにする、ということ。 「身口意の三業」のうちの「身」。 こちらも上記の正思惟や正語と同様に この身体という場にあらわれている現象を ありのまま変えることもなく 否定することもなく ただ淡々と起こるがままに信じて委ね切る そしてその起こるがままに気付き続ける という実践。 「私が、私は」と主語をつけて 「自分ごととして体験する」のではなく 「ただそこに起こる出来事」を 淡々と観察する練習、とも言えます。 こうした 「起こり」を観察して行くことにより 自我という幻と 『無我』という真理に 少しずつ脳や身体が 調整されて行くんだと思います。 まさに道(生き方)ですよね。
五、正命(しょうみょう):すべての可能性をオープンに楽しむ生き方
ありのままをありのままに見て 思惟し言い動く。 それがそのまま正命(ありのままの生き方) になるんだと思います。 もし 『中道』と 『無我』と 『諸行無常』が真理であるならば 正しい聖なる道であるならば どんな出来事も もしそれが起きたのであれば それは起きるべくして なるべくしてそうなったのであって それが自然の摂理であり必然であり そこには善悪も優劣も 損得も貴貧もなくて それは絶え間ない川の流れのように 常に変化して流れ去っていくもの。 だから仮にAとBという選択肢があったら 「Aでもいいし、Bでもいい」 「Aでなくてもいいし、 Bでなくてもい」 「AとBと両方でもいいし、 Cでもいいのかもしれない」 そんなふうに すべての可能性を ただオープンに楽しむことが できるようになると思うんです。 だってすべての可能性が 等しく尊い、かけがえのない奇跡だから。 あなたという存在のすべてが 宇宙始まって以来の 最初で最後の奇跡だから。
六、正精進(しょうしょうじん):陰陽統合と脳内「対消滅」による無条件の愛
仏教における 四正勤(ししょうごん)と呼ばれる 修行の一つで 以下の4つと どのように向き合ったらいいのか という実践からなります。 以下、順に解説してみたいと思います。 a: 「すでに起こった不善」: これは過去に起こった ネガティブな出来事や経験(不善)の ありのままを見つめ直すことにより その出来事は不善であったと同時に善であり なるべくしてそうなったのであって それは完璧な秩序と調和の結果であって 少しも変えたり否定したりする必要はない ということを探求するという実践。 これにより『中道』に至り 過去に生じた苦しみを 消滅させて行くことが可能となります。 b: 「未来に起こる不善」: これは未来に起こり得る ネガティブな可能性(不善)の ありのままを見つめ直し その可能性の プラスの側面とマイナスの側面を 同時に等しく認識することにより AでもBでも、またはCでも どれも等しく尊く、素晴らしい ということに気がつくという実践。 これにより未来に起こる不善への 過剰な不安を取り除くことが可能となります。 c: 「過去に生じた善」: これもまた過去に起こった ポジティブな出来事や経験(善)の ありのままを見つめ直すことにより その出来事は善であったと同時に不善であり なるべくしてそうなったのであって それは完璧な秩序と調和の結果であって 少しも変えたり否定したりする必要はない ということを探求するという実践。 これにより執着を手放し『中道』にいたり あらゆる苦しみを消滅させていくことが 可能となります。 何故ならば 善があれば必ず不善があるからです。 それゆえに善を良いことと断じて もっと欲しがり執着する心がなければ 反対に不善を悪いことと断して 否定して避けることもなくなり 思考から生み出される二元性が 統合・統一・中和されるからです。 そうすると思考のノイズが静まり そのぶん『身体』や『場』の『感じ』に 気が付きやすくなると思います。 d: 「いまだ生じていない善」: これもまた未来に起こり得る ポジティブな出来事(善)の あらゆる可能性をありのまま見つめ直し その可能性の陰陽両サイドの ありのままの真理を 同時に認識することにより 起きてくることへの 信頼が感じられるので 手放しやサレンダーがより促進され まだ起きていないことへの 過度な期待や欲や執着を取り除くことが 可能となります。 こうした陰陽統合の取り組みをすると 脳内に『対消滅』と呼ばれる現象が起き その結果『中道』の境地を体現します。 『対消滅』とは 対になる素粒子と その反粒子の対が合体して消滅し 他の素粒子や光子エネルギーに 変容すること。 たとえば ➖のエネルギー(➖電荷)をもつ電子と ➕のエネルギー(➕電荷)を持つ陽電子が 衝突すると、電子と陽電子が消滅し それぞれのエネルギーの和と 等しいエネルギーを持つ光子に 変換されるとます。 そしてこの対消滅の原理は 双極的な感情のエネルギーにも 当てはまるんです。 対消滅とともに 二元的(双極的)感情が統合されると その結果として 脳内に中道の境地と 光子エネルギーを作り出すことが 可能になります。 それは『光と愛と感謝』が心に溢れる 魂が震えるような体験です。 自分の凹だと思っていた側面ですら そうなるべくしてそうなっていて そのままのありのままで完璧で 変える必要も否定する必要もない ということが実感できるようになります。 そうすると ありのままの自分自身を まるごと肯定することが できるようになります。 それはそのまま自己受容感 自己肯定感、自己愛のアップに 直結するように思います。 そして自分自身の内で否定して 無意識に切り離していた部分との つながりが回復するので 自分自身との 心理的な分離感が解消されます。 それはとても強力な癒しになります。
七、正念(しょうねん):今ここに意識の光を向け続けるマインドフルネス
ありのままに気付く、ということ。 原語のSamma-Sati は 正しい気付きとも訳されるそうです。 「気付き(サティ)の瞑想」と同じサティですね。 一瞬一瞬の現在の瞬間に 「今ここ」に、気が付き続ける というような意味になると思われます。 つまり正念は 「諸行無常である今ここに気付き続け 意識の光を向け続ける」 という風になると思います。 まさにマインドフルネス、ですね。 補足すると 「気付き続け意識の光を向け続ける」のは 解釈したり判断したり把握したりすると 途切れてしまうと思います。 ちなみにサティは日常生活の あらゆるシーンで入れることができる とされていて 肌にシャツが触れる感覚や 足の裏の感覚などの皮膚感覚 聞こえたもの 感じたもの 考えたこと、などなど 意識に一番強く現れた感覚に気付き続け その感覚や思考をジャッジしたりすることなく ただ観察し続ける 「今ここ」にとどまり続ける という瞑想です。 この正念は、二〜五までの 正思惟 正語 正業 正命 それぞれの瞑想バージョン という感じでしょうか。 仮に心が乱れても その乱れもありのままただ気付き 「今ここ」にとどまり続ける という実践。
八、正定(しょうじょう):「私」という主語が消える真の精神集中(サマーディ)
ありのままの精神集中 とも言えそうです。 原語のSamma-Samadi は 正しい精神集中とも解釈できそうです。 静かに座り 呼吸などの対象に心を集中させ 能動的な作用がなくなった状態が 『サマーディ』だそうです。 日本語だと『三昧』というそうです。 この「能動的な作用がない状態」 というのはつまり 「私が」という主語の なくなった状態のこと。 無我の境地に至るまで集中が高まり 精神統一され、心の静けさが保たれた状態。 心の静けさが保たれた状態というのは 心のざわつきや雑念がなく 言語による受動思考がない状態です。 そのようなサマーディの状態を目指す瞑想を サマタ瞑想と呼びます。 どんな対象に集中するかにもよりますが 呼吸とか身体感覚と意識が 上手く同調してる時って、その間 言語による受動思考は 静まっていると思います。 言語による受動思考がないと 起きる出来事や想念に 「私が、私は、私の」って 主語がつかないから それらが単に 「出来事や物事」で完結して 「個人的体験」ではなくなるんです。 「出来事や物事」に対して 少し距離を持って 観察することができるんです。 自分から 能動的に世界に関わっていくのに対して そこにある世界を受け取って観察する っていう姿勢。 または状態。 この「私」という 主語がつかない状態に慣れてくると だんだんと自分の思考や言動や感情も 出来事や物事と同じで 自動的に起きてきている というのがわかってきます。 「私」という主語をつけて 自分でやらなくても 勝手に起きて 勝手に流れ去っていく。 自分でやって (いるように錯覚して) も あるいはただ起きるに任せても 必要なら起きることは勝手に起きます。 この点、私たちの思考も言動も感情も 季節の移ろいと全く同じなんです。 私たちが どんなに頑張っても頑張らなくても 季節は自然と移り変わっていくのと同様に。 季節の変化を 「私が変化させている」って 思うことはありません。 でも思考や言動や感情は 「私が考える」 「私が行動する」 「私の感情」って 思い込むことができるんです。 言い換えるなら 脳の機能の作用として そう錯覚させられているんです。 言語による受動思考がない または受動思考との距離が取れて その影響を強く受けずにいられると 起きることに 「私」という主語がつかないから 感情が起こっても 巻き込まれることが減るし 感情に巻き込まれずにいられると 世界を客観的に眺めていられます。 そんな状態を日常的に感じるための 言語による受動思考を止める練習。 その実践がこの正定です。

まとめ:日常の中で非二元と無我を体感する

以上、『新釈・八正道』でした。
たぶんマインドフルネスと
ヴィパッサナー瞑想と
陰と陽の統合をミックスしたような
非二元と無我を体感するための実践的な手引き
とも言えると思います。

拙者は仏教に関しては門前の小僧ですが
大筋は外してないと思うんです。

仏陀が残した
苦しみを滅し、
涅槃に至るための生き方
ぜひ実践してみてください。

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