今日は観音様の話をしてみたいと思います。
観音様の「観」は、単に「見る」という他に、心の目で深く洞察する、という意味合いがあるそうです。声にならない心の声をも聴く、ということでしょうか。観自在菩薩とも言いますね。
これは観音様の「相手によって自在に姿を変え、自在に物事を観る」という「智慧」を表現しているそうです。そんな観音様の智慧(能力)を、当研究所流に解析してみたいと思います。
ちなみに、仏教における「智慧」とは、「真理に即して、物事をありのままに識別し判断する能力」であり、これによって執着や愛憎などの煩悩を、消滅させることができるとされています。
つまり観音様のように「相手によって自在に姿を変え(変化自在)、自在に物事を観る(観自在)」ことによって「物事をありのままに識別し判断すること」が、執着や愛憎などの煩悩を消滅させることに繋がる、ということす。
そんな「変化自在で観自在な視点」を得るにはどうしたらいいのか。その解説と実践がまさに、このページの主なテーマになります。ぜひ最後までお付き合いください。
<ニュートラルなありのままの世界>
もしも仮に、この世には善も悪も、本当は存在しないとしたら…。「善・悪」だけじゃなくて、「正・誤」、「優・劣」とかの「相対的な二元的概念」は、本質的には存在しないとしたら…。「いい・悪い」「正しい・間違ってる」「優れている・劣っている」等々がない世界。
「善・悪」「正・誤」「優・劣」といったジャッジを手放していくと、自分と他人を比べたり、裁いたり、責めたりすることがなくなります。自分の中のアンバランスな陰と陽を見つけて、それらを統合していくたびに、「こうするべき」「そうあるべきではない」といった幻想から、徐々に思考が解放されていきます。「いい・悪い」などのジャッジがなくなるので、自然と「不安」や「恐れ」もその存在理由を失って、薄まっていきます。「不安」や「恐れ」が薄まっていくのに従って自然と、愛憎や執着も鎮まっていくのを実感できると思います。
そんなフラットな心で眺めるありのままの世界。「善・悪」や「正・誤」、「優・劣」や「貴・賤」、「貧・富」や「損・得」といった色眼鏡から解放されてみるニュートラルな世界。二元的な意味付けや、しがらみから解放された、ありのままの世界はまさに、解釈次第、視点次第。それはまさに、あなた次第。同じものでも見る角度や解釈の仕方を少し変えるだけで、違ったものに見えてくる。
そんな気付きに即して、二元的概念から解き放たれたあなたの存在は、その生き方、その存在そのものが、聴しであり癒しになる。揺るぎなく確かなものになる…。
ステップ・バイ・ステップで、一段階ずつ解説していきますね。
<相対的ということについて>
このページではこれから「相対的な二元的概念」について言及していくんですが、その前に「相対的」について。シンプルに言うと、「相対的」とは「絶対的」の対義語で、「他と比較することによって決まる性質」のこと。つまり相対的なものは、比較なしでは、単独では存在できません。これは物理学や哲学の世界で扱われる基本的な考え方の1つと言えると思います。この「相対的な二元的概念」についてこれから、さまざまな例えを使って説明していきたいと思います(この「相対的な二元的概念」の特徴を説明していくにつれて、「変化自在&観自在」との関係性も明らかになっていく予定です)。
例えば「暑さ・寒さ」。15℃という温度は暖かいでしょうか、冷たいでしょうか。実は15℃は、暖かくも冷たくもないんです。暖かいか冷たいかは、15℃を何と比べるかによって決まります。15℃の飲み物は少しぬるく感じるかもしれないし、15℃のお風呂は水風呂ですよね。同じ15℃でも場所やタイミングや比較対象が違えば、暖かくもなるし涼しくもなる。比較することで暑くなったり、涼しくなったりします。でも世界中のすべてが15℃だったら。比較がなかったら。体温も空気もお風呂も飲み物も、ぜんぶ15℃だったら。そしたら温度差を感じないから、暑いとか寒いとか感じないですよね。
例えば「速い・遅い」。時速30kmは速いでしょうか、遅いでしょうか。それは何と比べるかによって決まります。徒歩と比べたら時速30kmは速いし、新幹線と比べたら遅い。でも自分も周りの景色も時速30kmで同じ方向に移動してたら、止まって見える。つまり時速30kmそのものは、速くも遅くもないですよね。
例えば「美しさ・醜さ」。国や時代や文化が変われば、美醜の基準も変わります。同じ顔でも国が違えば、時代が違えば、モテたりモテなかったりする。でも、みんながみんな同じ姿形だったら、比較がなかったら、美しいも醜いもないですよね。
例えば「幸・不幸」。発展途上国だったのにもかかわらず「世界一幸せな国」と言われたブータンは、情報鎖国が解かれて、SNSなどで他国と自分たちの生活を比較するようになってから、国民の幸福度が著しく低下したことは有名な話です。ブータンに限らず現代では、つい他人と自分を比較して不幸を感じたり、劣等感を抱えてしまいがちです。「隣の芝が青く見える現象」ですね。
例えば「善・悪」。ショッカーが世界征服を企むからこそ、仮面ライダーは正義の味方でいられるんです。ショッカーが悪の象徴でなければ、仮面ライダーは失業して、だのコスプレイヤーになってしまうんです。同じ仮面ライダーも、ショッカーという条件次第で、全く別のキャラクターになってしまうんです。でもショッカーが世界征服に成功して、あなたもわたしもみんなショッカーになったら、この世には善も悪もないですよね。でも仮に、そんな状況下に仮面ライダーが一人だけいたら、たぶん悪の異物とみなされて排除されますよね。
例えば「正・誤」。奥さんはいつだって正しいんです。間違いありません。議論の余地はありません。でもそれは世間一般ルールか、我が家限定ルールかという条件次第なんです。そして他所と比較しなければ、正しいも間違ってるもないんです。だからこそ「よそはよそ、うちはうち」なんです。「他所と比べちゃダメ」って言いたいんですね。意味深!
絶対的な善も絶対的な正しさないんです。そしてそれらは、比較がなければ、単独では存在しないんです。
<どんなものも本来「相対的な意味」を持たないということについて>
だからどんな物もすべて、元々どんな「意味」も持っていませんでした。人間の自我意識が思考を使って物事を比較して「アレは善でコレは悪で…」ってやり始めるまでは…。そう、人間の自我意識が人間独自の物差しで「善・悪」とか「優・劣」とか判断をするその時までは、どんな物事もニュートラルで、もともと根源的にこの世には善や悪といった「相対的な意味」は一切ないんです。比べる対象や、その比較をする人間がそこにいなければ、時速30kmに「速い」とか「遅い」とか「優れている」とか「劣っている」とか、「意味」はありません。ニュートラルなんです。
「アレは善でコレは悪」なんて言ってるのは、この世界の中で人間だけ。その善悪の概念を理解できるのも、感じられるのも、たぶん人間だけですよね。つまり「善か悪か」は常に、人間視点からの解釈なんです。そもそもたぶん人間以外、善・悪とか理解すらできない。だから人間の自我意識がなければ、この世のすべてはニュートラルなんです。
<バランスの法則について>
でも私たち人間が、これは善とか悪とか判断を下したその瞬間、実は善と悪のその両方を、質的にも量的にも等しく、頭の中の概念の世界に存在せしめてるんです。つまり、頭の中では、善が存在したら悪も必然的に存在するし、そして、悪が存在したら善も必然的に存在する。その逆もまた然りで、善が存在しなければ悪は存在しないし、悪が存在しなかれば善は存在しない。どちらか片方だけでは存在できないんです。仮面ライダー(善)とショッカー(悪)は、表裏一体なんです。
でもこの世界には、絶対的な正義や絶対的な正しさが存在しているように見えるのはなぜでしょうか。大好きなあの人の短所なんて目に入らないですよね。逆に「あの人は悪い人だから嫌い」って感じたら、人情としてはその人の良い部分には目が行きにくくなったり、敢えて見ようとしなかったり、なんてことはよくありますよね。仮面ライダーにも善と悪と両面あって、ショッカーにもいい側面と悪の側面の両方が備わっているのに。なぜ私たちの目には、仮面ライダーは必ず正義の味方で、ショッカーはいつも悪の組織、と映るのでしょうか。
<<<好きな人の短所は目に入らない>>>
それは、私たちが頭の中で比較判断を下してアンバランスな感情を感じる時、その反対の極性は無意識の中に落ちてしまって、認識できなくなってしまうという、二元的捉え方の特徴があるからです。
つまり例えば、「仮面ライダーは正義」と意味付けする時、必ずその光は、影となる「仮面ライダーは悪」という概念をも同時に生み出します。壁を手で押す時、必ず同じ力で押し返されるように。コインの表面と裏面の面積は、必ず等しくなるように。坂道の上り坂の下坂の距離は、必ず等しくなるように。
そう、「仮面ライダーは正義」と意味付けする時、必ず「仮面ライダーは悪」という概念をも生み出しているんだけど、「仮面ライダーは正義」って強く思えば思うほど、影の部分は色濃くなに余計に目に入りづらくなります。逆もまた然りです。私たちの意識はそうゆう風にできてるみたいです。誰かを好きになるとその人の短所には目がいかなくなるんです。
でも人は本来、長所も短所も両方持っているもの。いい部分もあれば悪い部分も兼ね備えてる。
正しい時もあれば間違う時もあるし、優しい気分の時もあれば険悪な雰囲気の時もあって、その両方がせめぎ合い、バランスを取り合っているのが人間。時と状況によって、場面によって、相手によって、条件が変わればいい人にも性格悪い人にも、賢い人にも愚かな人にもなる。それが人間じゃないでしょうか。仏教ではこれを「而二不二」と呼びます。つまり2つに見えるけど本質は1つということです。コインの表と裏のように、決して切り離せない関係性を指します。
<<<いい面と悪い面のそれぞれにもプラスとマイナスがある>>>
そして一枚のコインには表と裏があるように、表面にもいい面と悪い面の両方があって、裏面にもいい面と悪い面の両方があって、そのいい面と悪い面のそれぞれにもプラスとマイナスがあって…、って永遠に続いていくんです。「表面は当たり」ってポジティブに感じれば感じるほどそこに強い感情や執着を感じるほど、裏面の存在が見えなくなってしまう。本当はコインって表面と裏面で一枚なのに。「表面は当たり」ってポジティブに感じれば感じるほど表面に関するネガティブな点が見えなくなってしまう。ホントはあたりを引くことにも不利益やチャレンジが隠れているのに。でもそんなことにかかわらず、コインはただそこにあるだけだし、裏面も表面も全く同等の存在で、表面と裏面の面積はいつも同じです。
ショッカーにもいい面と悪い面とそれぞれ等しくあって、そのいい面にも+・ー両面等しくあって、その悪い面にも+・ー等しくある。そしてそれぞれの+・ーにもまた、等しく+・ーが備わっていて、それらは常にバランスを保つようにできています。
ショッカーのおかげで、人々の団結力が高まるかもしれません。ショッカーのおかげで、世界征服以外の脅威にも対する抵抗力が身につくかもしれません。ショッカーのおかげで自警団が組織され、街の治安が向上するかもしれません。仮面ライダーのような改造人間が誕生したのもまさにショッカーのおかげと言えるのではないでしょうか。
でも団結力が高まった反面、排他的文化も育つかもしれません。脅威に対する抵抗力が身につくことで、柔軟性は失われるかもしれません。自警団が組織されたせいで、訓練や費用の負担が生まれます。仮面ライダーのようなヒーローが誕生することで、安心して怠慢になる人もいるかもしれません。すべての「相対的な二元的概念」は視点次第、条件次第、解釈次第で、移ろいます。「善悪」も「意味」も「価値」も「真実(に見えるもの)」ですらも「絶対」ではないんです。すべてあなた次第。「観自在」なんです。
冒頭でも少し触れましたが、こんな「非二元的」で「観自在」な視点が身についてくると、自然と他人や自分をジャッジしたり、責めたりすることが減っていきます。「コレはいいことだから、こうするべき」といった一方的な決めつけや、「思い通りならない」といった心の葛藤が減っていきます。自分を縛っていた幻想の鎖から解き放たれます。その思い込みは一面的で、本当は「コレは善でも悪でもあって、ソレもまた善であり悪である」と確信できたら、心の底から「どっちでもいい」ってなりますよね。「コレもいいし、ソレもいい」。もしかしたら「別のなにか」でもいいのかも。以前は真剣に「どっちがいいんだろう」って悩んでたことも、「こうじゃなきゃ」ってしがみついていたことも、「どっちでもいい」って心から思えたら、「思い通りにしたい」「何かをコントロールしたい」と思う苦しみから解き放たれます。だって「どっちでもいいし、どっちもいい」んだから。「〜〜だからいい」とか「〜〜だから良くない」といった条件付けから解放されて、「〜〜であっても〜〜でなくても、どちらでもいい」という無条件のありのままを認識できるようになります。そんな時、「執着」や「愛憎」は生まれません。だって「どっちもいいし、どっちでもいい」んだから。「どっちでもいい」と思えないから「執着」や「愛憎」が起こります。そんな「どっちもいいし、どっちでもいい」と心から思えるようになるための、非二元的で観自在な視点を取り戻すための、誰でも今日からできる、強力な実践方法をご紹介します。
<陰陽統合>
例えばあなたの身近にいるショッカー(悪役)のポジティブな側面を可能な限り列挙していくんです。反対に、あなたの周りにいる仮面ライダー(ヒーロー役)のネガティブな側面を洗い出していくんです。
これは頭で理解するだけじゃなくて、実生活の中の実感として捉え直す作業。
ショッカーのマイナスに見える言動のその陰に、どんなギフトや学びや成長が隠れているか。ショッカーのネガティブに見える言動や性格がなければ、困っていたことはないか。あらゆる角度から、あらゆる視点から探ります。
その反対もまた同様に、仮面ライダーのポジティブに見える言動のその陰に、どんなチャレンジや教訓や落とし穴が隠れているか。仮面ライダーのポジティブに見える言動のせいで、何かを阻害されたことはないか。こちらも可能な限りあらゆる角度から探っていきます。
そういった質問を自分に投げかけることで、自分の中のショッカーの言動に対する陰と陽のエネルギーが統合されて、ショッカーに対する心のバランスを取り戻すことができるようになります。その結果、ショッカー本来のありのままの姿を、一方的な感情を通さずに、フラットにニュートラルに観察することができるようになります。これがまさに冒頭で出てきた「観自在」の具体的な実践方法です。でもね、ショッカーのことを嫌い過ぎて、ポジティブな側面なんてあっても気が付かない、ってこともあります。そこでおすすめしたいのが次の実践です。
<ありのままを見る視点>
これは仮の話として感情をとっぱらって、その対象本来の姿や、出来事本来の客観的事実だけを見つめてみる、という実践になります。15℃という温度に、「熱い」とか「冷たい」とか意味やレッテルを与えずに、15℃という温度そのものの、ニュートラルな、ありのままを感じる練習。例えば「批判」や「称賛」は「意見」なんです。「発酵」も「腐敗」もその科学的作用は同じなのに、そこに人間が意味を与えて呼び分けているに過ぎません。この、「二元的フィルターに付随する感情を無視して考える」技法は、強い感情に流されて陰と陽の統合が難しい際などに、とても有効です。例えば「もし仮にこの世界に’怒り’という感情が存在しなければ、あの批判について自分はどう思うだろうか」という風に自分に問いかけてみるんです。たったそれだけで、あれは「批判」ではなく「意見」または単なる「発言」だったと気が付ける余裕ができます。その対象の、見えていなかった側面にも冷静に気が付けるようになります。そして問題を生み出していた(ように見えていた)のはその対象そのものではなく、自分の認識、捉え方、解釈の仕方だった、ということに気が付ける。これもまた「観自在」的視点を培うための素晴らしいエクササイズです。そしてさらには、すべてをニュートラルに捉え直してみれば、問題と思っていたことは、そもそも問題ですらなかった、ということに気が付くと思います。
<<<観自在菩薩はあなた>>>
こんなふうに、相対的で二元的な概念ははどんな時も常に、バランスを保つようにできています。その法則から逃れるなんてのはそもそも不可能なんです。+とーはいついかなる時も均衡を保つようにできています。そしてこの法則は人間関係を含めたあらゆる事柄にも当てはまります。
人間の自我意識と思考がなければ、陰陽も善悪も優劣も貴賤も強弱も正誤もないんです。でもどんなものも見る角度や捉え方や、時には気分次第で、+にもーにも見える。同じものが、善に見えたり、悪に見えたりもする。その曖昧であやふやなで変化自在で柔軟な自在さ。それこそが、観音様の能力「変化自在、観自在」。そしてその自在さを通して、ありのままへの無条件の愛を体現していく。素晴らしくても素晴らしくなくても、尊くても尊くなくても、条件をつけることなく無条件に、自在に愛していく。この世界はそんなゲームなのかもしれないです。そんな生き方を体現できたとしたら、きっとあなたはゆったりとしていてなおかつ揺るぎない、そこにいるだけで落ち着きと穏やかさが広がる、そんな存在になっていくと思います。
まさに、あなたのその視点が、その捉え方が、「観自在」そのもの。そして「菩薩」とは、「悟りを求める者」という意味なんだそうです。
今日からあなたも観音様。

