平和の花

「怒り」を許すことは、自分自身を解放することです。

許しの心は、心の中に広がる平和の花です。

by 仏陀

 

この仏陀が残したとされるお言葉。まじでホントにエグザク通りその通りです。ダークな怒りの感情にモロに巻き込まれてる時ってシンプルに苦しいし、過剰だとストレス溜まって血圧上がって血管プッツン、みたいなことにもなりかねないw

血管プッツンにならないためにも、生きるのが楽になるような気付きのシェアとかを少々。(やや長文でかなり話があちこちに飛ぶのでお時間のあるときにでもぜひ…汗)

さて、怒りの感情が湧いてきたとき。対処療法として一番即効性があるのは、ただその感情を見てあげること。じっくり焦らずゆっくり感じてあげること。しっかり意識の光をあててあげること。頭の中に色々思考が浮かんでくるかもだけど、そーゆーのにはいっさい構わず、今自分が感じている感情を、ジャッジすることなくただ感じてあげる。「こんな風に感じるのは大人気ない」、とか思わずに。原因探しとか相手の落ち度とかについて考えずに。ただ感じてあげる。ふつふつと血が沸騰する感じや飛び出しそうな情動そのものを感じてあげる。「心臓ドキドキしてるなー」とか、「怒り全身駆け回ってるなー」とか、まるでお医者さんが患者さんに接するように、ちょっと客観的に見てあげるようにするのがコツかもしれません。そうするとね、感情って実はガソリンみたいなエネルギーみたいなものだから、じっくり感じてしっかり時間をかけて意識の光を注いであげると、次第にそのエネルギーは消化&昇華されて薄まっていくんです。ポジティブな感情が長続きしないのってこんな一因もあるのかもしれないですね。こんど強い感情が湧いてきたらぜひ、その感情をじっくりしっかり感じてみてください。

でもね、「怒りを昇華させましょう」とか「じっくり感じれば大丈夫」なんて言われてもやっぱり怒りとかネガティブな感情は「できるなら感じずに生活したいよね」って思いますよね〜。「アンガーコントロール」なんて概念もあるくらいだし。「そもそも怒りとか感じずに生きられるならそうしたい」って思いますよね〜。わかる〜。でもね、そんな普通に一石を投じてみたいなぁ、ということでw

結論から言っちゃうと、「怒りを感じること」には何の問題もないんです。怒り、全然オッケーなんです。怒りもどんな感情もそーなんですが、そもそも「避けた方が方がいい感情」なんてないんですね。否定すべき感情なんてないんです。抑えるべき感情なんてないし隠すべき感情もないしコントロールすべき感情もないんです。こんなこと言うと「どゆこと?」って思いますよね。むしろなんか反発を感じる人もいるかもしれないですね。特に私たち日本人は「感情を表に出すのは子供っぽい」とか「感情をコントロールできるのが大人」みたいな風潮がありったり一切のネガティブな感情を抑圧したり否定しようとする文化があるからネガティブな感情を思いっきり感じることに抵抗がある人は多いと思います。感情を素直に表現して嫌な思いを味わったことのある人もいるかもしれません。だから怒りは全然オッケーとかいっちゃうとちょっとトゲがあるかもですが、でも実は、怒りやその他のネガティブな感情も含めて、どんな感情でも、それを感じることには、本当は何の問題もないんです。むしろそれは人生からのギフトなんです。

仮に何か問題・不利益・不都合などがあるとすれば、その逆の、(怒りを感じることの)恩恵というのが、必ず存在しているはずなんです。気付き難いかもだけど。なかなか見えないかもしれないけど。この世界の全てのものには「バランスの法則」とでも呼ぶべき法則が働いてるから、「怒りを感じること」によって発生する不利益と「怒りを感じること」によって生まれる恩恵も、必ず釣り合うようになっています。

「人間万事塞翁が馬」という故事がありますよね。有名な話だからご存知の方も多いかと思います。
— 昔々中国の辺境に住んでいた塞ジィさんの飼っていた馬が逃げだしました。当時も馬は高価な財産だったからご近所さんたちはこぞって塞ジィさんを慰めました。
— しばらく経って逃げた馬が他の馬を引き連れて戻ってきました。すごい棚ぼた!ってことで今度はご近所さんたちはこぞって塞ジィさんを羨ましがりました。
— しばらく経って塞ジィさんの息子が新しい馬に乗っていたら落馬して骨折してしまいました。働き手の息子が怪我したもんだからご近所さんはこぞってお見舞いにやってきました。
— しばらく経って隣国が国境を超えて攻め込んできました。若者はみんな徴兵されて戦争に行ったけど塞ジィさんの息子は骨折してたおかげで兵役を免れました。

こんな風に、私たちがこの世界の中で認識できるポジティブやネガティブはどんな場合でも質的にも量的にもバランスしてプラスマイナスゼロになるようにできています。もっというなら、本来ならこの世の中の出来事や物事、あらゆる森羅万象は、ポジティブでもなければネガティブでもないんです。ニュートラルなんです。なぜなら人間のエゴ以外に、物事を比較してジャッジして白黒分けて優劣つけたり、なんてことをする存在はいないわけで。そしてその比較の基準、ジャッジの基準、白黒の基準、優劣の基準は、常に「非常に限定されたある特定の条件の中で自分にとって白かどうか」なんです。そしてその白があたかも絶対であるかのように感じてしまうんです。そして黒は潜在意識に中に落ちていってしまって顕在意識では見えなくなっちゃうんですね。そして非常に興味深いことにその白と黒は常に質的にも量的にもバランスを保っている…。つまり陽があれば陰が存在するし、同様に陰があれば陽が存在する。また陽がなければ陰は存在し得ないし、同様に陰がなければ陽は存在し得ない。例えば、坂道があれば必ず上りと下りが存在するように、そしてその上りの距離と下りの距離はいつも同じであるように。例えば、コインがあれば必ず表と裏があるように、そしてその表の面積と裏の面積はいつも同じであるように。

怒りを感じることは本来いいことでもなければ悪いことでもないんです。と同時に、悪いことでもありいいいことでもあるんです。そしてこの法則は「怒り」だけでなく、ありとあらゆる感情、出来事、物事、あらゆる対象に当てはまります。たとえば輪ゴムのような輪っかを真横から見たら直線に見えますよね。そうするとあたかもそこには、「右はじ」と「左はじ」があるように見えますよね。右はじはあるけど左はじはない、なんてことはないですよね。普段私たちが何かを「あれはいい」とか「あれは良くない」とか判断してる時ってきっとこんな感じとも言えるんじゃないでしょうか。でもそれを真横じゃなくて上から眺めてみるとそこには右も左もなくて円が見えますよね。+・ーとかポジティブ・ネガティブとか二元的なもの双極的なものってみんなきっとそんな感じだと思うんです。右も左もないんだけど、でも視点次第でどのポイントも右になり得るし左にもなり得る。でもまた視点を変えるとフラットでニュートラルにもなり得る。そしてそのどれもが真実だし、どれもが幻だとも言える。どの角度から眺めるか。どのくらいの範囲を眺めるか。どのくらいの距離で眺めるか。たとえばそんな感じじゃないでしょうか。

怒りを感じている自分を受容してみよう。怒りを感じている自分をただ観察して認識してあげるだけ。意識のスポットライトを当て続ける感じ。怒りだけじゃなくて他の感情もそうだけど、感情さんたちは感じてあげることで消化されて昇華されます。逆に感情を感じてあげずに蓋をしたり見ないふりをしてるとそのエネルギーは昇華されずに身体の中に蓄積されて、最終的には腰痛とか身体の不調だったり、何らかの症状として表出するようになる。血管プッツンとかw
(この辺についてはガポール・マテ博士というカナダのお医者さんが書いた『身体が「ノー」と言うとき・抑圧された感情の代価』と言う本などで詳述されているのでぜひ一読されたし、です)

もちろん感情を感じきってその場で昇華させることはその感情が発生する根本の原因解決にはならないから似たようなシチュエーションに遭遇すればまた同様の感情が出てくるんですが、そこは『陰陽統合ワーク』で自分が握りしめている想念を見つけて統合・中和してあげることで根本的な解決になりまふ。

『陰陽統合ワーク』では例えば怒りを感じた根本原因となる信念や価値観をニュートラルな状態に整えあなた本来のバランスを取り戻すお手伝いをします。仏教的表現をするなら中道の境地に至るためのお手伝いをします。つまり怒りの原因となったアンバランスだった想念や信念のバランスを整えることで、同じシチュエーションに遭遇しても怒りは湧いてこない、というわけです。似たようなシチュエーションに遭遇することすらなくなるかもしれないですね。

例えばあなたが、「人助けはいいこと」「みんなもっと助け合うべき」「困ってる人を助けないのはよくない」といったことを強く信じている場合、人助けが出来た時や人助けをしている人をみたら気分が良くなったりしますよね。逆に誰かを助けられなかった自分や、困ってる人を無視してる人がいたら
あんまりいい気分はしないんじゃないかと思います。あなたが「人助けは善!」って信じてれば信じてるほどそれに比例してあなたが感じる感情は強くなっていくと思います。それはね、あなたが優しい心を持ってる証拠なんだと思います。でもね、ちょっとだけ立ち止まって考えてみてほしいんです。
– 誰かを助けたことよってその人の成長の機会や自立の機会を奪ってしまう可能性ってゼロでしょうか。
– 誰かを助けたことによってその人の依存心を強めてしまうかもって思うのは心配のしすぎでしょうか。
– もしかすると困難を克服するという経験も長い人生の中では悪い経験ではないかもしれません。
– 助けられる人の独創性や創意工夫をくじくなんてことが起こらないという保証はあるでしょうか。
– ピンチをチャンスに変えてすごい発明を思いつくかもしれない、なんてこともあるかもしれません。
– あなた自身のリソースが削られることによって本当に助けが必要な人に手を差し伸べられないかもしれないなんてこともあるかもですよね。
「人助け」の例がわかりやすいかな、と思うんですが、要するに、ポジティブに感じること=良いこと、正しいこと、+なこと、というわけではないんです。これまたちょっと言い方どーなの、って意見もあるかと思いますがw しかしその複雑に絡み合った禍福の縄の因果関係をほどくことも人智の及ばぬ領域だし、そもそも馬が逃げるかどうかも駿馬を連れて帰ってくるかどうかも予想不可能なわけです。

例えば、人間の目が知覚できる可視光線は電磁波全体の波長の0.0035%でしかないそうです。聴覚や触覚、味覚や嗅覚も同様に、人間に知覚できる情報は世界全体の1%未満という説もあるようです。つまりその90%以上が知覚することすら不可能なこと素晴らしき世界で、人間の顕在意識が理解できる因果関係って本当に限定された範囲のみだと思うんです。それ以外は人智の及ばぬ深遠な秩序で保たれているんだとすると。。。

だからつまり、Follow your heart で心のままに生きてゆけばいいさ、ということなんですね。自分の中の想念や感情のバランスが取れて自分自身でいられている時には、自然とそれが出来ちゃうんです。
人助けをすることもしないことも等しく尊いことなんだって腑に落ちてれば、助けることに正義や優越感を感じることもないし、反対に、助けないことに後ろめたさや劣等感を感じる必要もないんです。誰かを助けた時も、ギフトと同時にチャレンジを与えているんです。誰かを助けなかった時も同じです。チャレンジと同時にギフトを与えてるんです。与えることは奪うことでもあり、奪うことは与えることだからです。

人助けは善でも悪でもないし、同時に善でもあり悪でもある。つまり助けたいとその時心から思えば助ければいいし、心の底から助けたいっ!って思わなければ助けなくてもいい。AでもいいしBでもいい。そしてそのどちらもかけがえのない尊い奇跡。大事なのは自分に対して素直でいれているかどうか。ありのままの自分を受け入れて愛してあげられているかどうか。そうなると仮に誰かを助けなくても罪悪感を感じたりする必要はないと腑に落ちて理解できるし、代わりにただ自分の心の赴くままに自分に素直になっていいと思えるようになる。真の意味での『自らに由る、自由』ではないでしょうか。

同様に怒りもまたポジティブなものでもなくネガティブなものでもないってことなんです。その瞬間怒りがあるならそれは自然の摂理なんです。そうなるべくしてそうなっているので、怒りを感じるときは怒りを感じればいいんです。その怒りの感情を昇華させてあげてから、その怒りの原因の元となったアンバランスな信念や想念を突き止めてそのアンバランスを『中道』の状態に整えてあげる。二元的な、双極的な感情って、そのための道しるべなんですね。だから怒りを感じることにまったく問題はないんです。そして、さらにいうなら、怒りを否定することは自分の一部を否定すること。なぜならこ怒りも含めて全ての感情は自分の世界の構成要素の一つだから。この世の全ては自分の内面の反映で、ありとあらゆるあなたの感情を揺さぶる出来事や物事や人々はあなたの握りしめている想念や信念を明らかにしそれらのバランスを整えることであなたに「ありのままの自分を愛すること」を教えるためにそう現れています。そしてあなたも私も人間である以上、ありとあらゆる性格や特性を兼ね備えています。誰しもが時に優しく時に意地悪で、時に寛大で時に心狭く、時に明るく時に暗い、その全てを兼ね備えているのが私たち人間じゃないでしょうか(ネガティブを否定するポジティブ思考で幸せになれない理由はココにありマフ)。それら全てにレッテルを貼ることなく決めつけることなく否定することなくありのままにまるっと受け入れて、愛してあげる。世界や他者、そして自分に貢献するために、それ以上に私たちができることはないんじゃないでしょうか。

解放しよう。

「怒り」をネガティブなものと決めつけなければ、心はもっと軽くなる。
あなたはもっと仏陀(=目覚めた人)になる。
心の中に平和の花を♡

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