
『万物は、もともとは善でも悪でもない。しかしそれと同時に善でも悪でもありえる。
陰の中にも陽があり、陽の中にも陰がある。陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる』
ー 陰陽の法則
<二元的概念の相対性と流動性>
例えば、輪ゴムのような輪っかを真横から見たら直線に見えますよね。
そうするとそこには、「右はじ」と「左はじ」があるように見えますよね。
私たちが何かを二元的に判断してる時ってこんな感じじゃないでしょうか。
でもそれを斜め上から俯瞰してみると、直線じゃなくて輪が見えますよね。
斜め上から眺めてみると、「右」だと思ってた地点も「右」じゃなくなる。
こっち側から見たら右だと思ってたけど、あっち側に立つと今度は左に見える。
陰・陽とかポジ・ネガとかの二元的な概念って、そんな感じですよね。
絶対的な右も、絶対的な左も、ないんです。
でも条件次第・視点次第で同じポイントが右にも左にもなり得る。
条件や視点が変わればそれとともに変化する「相対的」なもの。
そう、二元的概念は相対的なんです。ちなみに「相対的」とは
「単独では存在できず、他との比較や関係性の中で成り立つもの」。
「右」がなければ「左」は存在できないし、逆に「右」があれば「左」もある。
二元的概念はどれも、人間が頭の中で物事を「比較」するから存在するんです。
<例えば>
速いと遅い:
時速50km は速いでしょうか、遅いでしょうか。
実は、時速50kmは速くも遅くもないんです。
でも歩いている人から見たら速いかもしれない。
でも新幹線と比べたら遅いかもしれない。
比較して初めて速くなったり遅くなったりする。
でも比較がなければ50km は 50kmで、速くも遅くもないんです。
上と下:
日本では「上向き」でも、地球の反対側のブラジルでは「下向き」。
ベクトルの向きは同じでも、視点が違えば上にもなるし下にもなる。
あるいは、坂道って「上り」なんでしょうか「下り」なんでしょうか。
それはあなたの立っている位置によって変わりますよね。
でも「上」がない時「下」もない。
それらは単に「一つの方向」であって、上も下もないんです。
暖かいか冷たいか:
自分の体温と比較すると気温の温暖差を感じますよね。
自分の体温という条件が上下すれば
気温は同じでも暑さや寒さは変わりますよね。
でももし仮に世界中のすべての温度が体温と同じ36.8℃ だったら、
お風呂の温度も、ビールの温度も、すべて体温と同じ温度だったら、
そしたらたぶん暖かいとか冷たいとか感じないですよね。
比較がなかったら36.8℃ は36.8℃ で、暖かくも冷たくもないんです。
美しいか醜いか:
上記のような物理法則ではない、美醜の基準だって、
国や時代や文化という視点の変化によって変わりますよね。
多分、江戸時代の美人の基準は、現代の美人の基準とは違いますよね。
同じ現代でも、東洋人と西洋人が美しいと感じる顔はそれぞれ違うみたいです。
でも仮にみんな全員、同じ顔で同じ体型だったら、ハンサムもブサイクもないですよね。
だってみんな同じなんだから。比較がないなら、優劣も美醜もないんです。
善か悪か:
善悪や正誤の基準や倫理観だって、変わりますよね。
国や時代や文化によって、場面や状況によって、捉え方によって。
善悪や正誤なんて時に気分によっても変わってくることも。
絶対的な善とか、絶対的な正しさってないんですね。
ピンチはチャンスだし、短所は長所だし、雨降れば地固まる。
人間万事塞翁が馬だし、災い転じて福と成すこともある。
失敗は成功のもとだし、必要は発明の母。
人助けは誰かの成長の邪魔をするかもしれないし、
不便さや憤りや悲しみは新しい変化を促す原動力になり得るし、
一夫多妻制は国によっては犯罪だけど別の国では普通のこと。
個の死ですら広い視野で見れば、淘汰であり環境に適応した
より優秀な遺伝子を次世代に残すという意味では成功で。
(蛇足ですが、「じゃあ悪いことしていいのか」という話ではないですw
逆にフラットに物事を見ることができるから、例えば、
成功して浮かれることも失敗して落ち込むこともなく、軸がぶれない。
だから感情に流されることなくただありのままを受け入れて、
より現実に即した冷静な判断を下すことができるようになるんです。
というあたりについては以下で触れたいと思います)
そのほかのあらゆる二元的な価値感なども同様です。
視点や条件、国や時代や文化が変わればそれに伴って変化する。
そしてもともと本質的には善も悪もないんだけど、
でも視点次第で同じものが善にも悪にもなる。
でもまた視点を変えるとニュートラルにもなる。
そのどれもが真実だし、どれもが幻だとも言える。
そして「善」がなければ「悪」は存在できないし、
逆に「善」があるから「悪」もある。
(この考え方は、仏教では而二不二と呼ばれます)
二元的概念はどれも、人間が頭の中で
物事を比較するから存在するんです。
比べることがなければ、善悪も正誤も損得もないんです。
<立体的視点へのシフト>
平面的に見ればそこにはあたかも、善と悪があるように見えます。
でもそれを斜め上から見てみれば、それは循環する環の一部で、
善だと思っていたものも、視点が変われば悪にもなる…。
部分的・局所的には善と悪があるように見えるけど、
より広い視野でみればそれは全体の一部でしかない。
この輪ゴムのアナロジーに見られる相関性の理解と
「平面的視点から立体的視点のシフト」と、
それに伴って起こる意識の変容こそが、ただの比喩ではない、
アセンションとか次元上昇っていわれるものの正体なんだと思います。
観測者である点 (0次元) に
善と悪という線 (一次元) が加わることによって
平面的な視野 (二次元) が生まれ、
そこに俯瞰する視点が加わることによって
立体的な視野 (三次元) になる。
この立体的視点を日々徹底的に意識にこすり込むことで、冒頭に書いた
『どんなものも、もともとは善でも悪でもない。
でもそれと同時に善でも悪でもありえる。
陰の中にも陽があって、陽の中にも陰がある。
そして陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる』
という観点が腹の底から実感・納得できるようになります。
そしてこの「立体的視点の獲得」によって
視野が広がって、実際に意識の変容を感じられるとしたら…。
多くの人が以下のような変化を体験しています。
>>> 「正誤」「善悪」「優越」「損得」「貴賤」などといった、二元的概念が薄まり、「いい悪い」「正しい間違ってる」などが気にならなくなってきます。
>>> そうすると、自分や他者や、世界をジャッジすることが減少します。自分を責めたり、他人にイライラしたりすることが減ると、本当に心が軽やかです。
>>> そして「善悪」や「正誤」にとらわれることが減ると「こうあるべき」という幻想や固定観念が薄まります。「こうあるべき」にとらわれることがないと「こうあってもいいし、そうでなくてもいいし、どうあってもいい」というふうになるので、自分や目の前の世界のありのままを、ありのままに見ることができるようになります。「こうあるべき」にとらわれないと、本当にゆるみます。
>>> 二元的概念が薄らぐにつれ、自分自身の中の二元的要素も徐々に統合され、頭の中の雑念が静まっていき、心の静寂を感じる時間が増え始めます。頭の中が特に騒がしい時って、自分の中に分裂というか矛盾が起きてる時なんです。「深層意識と表層意識の軸」がすっきり整ってる時って迷いがなくて頭の中は静かなんです。(この論理的背景について「分離感と自動思考の相関関係」で書いてみました)
>>> そして「こうあるべき」に縛られずに、物事本来のありのままの姿が見えるようになると、徐々にそこにある美しさや愛や奇跡に気が付き始めます。
>>> そして善でも悪でも、正でも誤でも、無条件に尊い奇跡であるという真理に出会い、心が無条件の愛と感謝に満ち溢れます。
>>> それが極まったところが、非二元 (ノンデュアリティ)。
p。s。
禅とか茶道で「円相」というのをよく見かけますね。
本ページの画像になってるような丸いやつ。
あれです。
始まりもなく終わりもなく、
全てが始まりであり終わりでもある。
欠けるところなく余すところもない。
悟りや宇宙や真理を象徴すると言われる、円。
そして見る人の心を反映するという、円。
あなたにはどんなふうに見えますか?

