『自分』とは

『自分』とは、『自意識』とは、といった哲学的命題について。

チェコ出身のユダヤ人作家フランツ・カフカの書いた『変身』という小説をご存知でしょうか。主人公のグレゴリーが朝起きると大きな虫に変身している…、というシーンから始まるカフカの代表作です。虫に変身してしまったグレゴリーはそれでも「自分は自分」という認識を変わらず持ち続け、グレゴリーとしての自意識を保ったまま肉体は虫として生き続ける…。『自分』とは何なのか。『自我』とは何なのか。そんな疑問を投げかけてくる不朽の名作です。

この「突然、虫に変身する」という設定。突拍子もなく非現実的な話しに聞こえるけど、実は似た様な事は日々私たちの肉体にも起こってると思いませんか。新陳代謝によって日々、私たちの身体の細胞たちは新しいものに生まれ変わり続けています。腸などの細胞であれば数日、皮膚の細胞であればおよそ一ヶ月、骨などの細胞であればおよそ数年で入れ替わるそうです(脳の神経細胞には寿命が長いものもあるみたですが)。つまり、例えば10年前の自分と現在の自分では物質的には全く別物になってしまっているわけですよね。にも関わらず、私たちの自我意識は「自分は自分」と言い続ける…。

これがたとえば車だったら。毎日少しずつ部品を交換していく様なイメージかもですね。今日はドアと窓ガラスを。来週はボンネットを。来月はホイールを取り変えよう、みたいな。ホンダに乗ってたはずが気付いたらトヨタになってた、みたいな。そしてその一つとして自我意識はコントロールできないですよね。コントロールどころか、把握することすら不可能ですよね。それでもやっぱり自我意識は「自分は自分」「この身体は自分の身体」って言いますよね、きっと。「この肉体が自分で、皮膚の内側と外側が自分自身とそれ以外の境界線」って今までずっと思ってきたし、私たちが暮らす社会もそういう個人観の上に成立しているシステムだと思います。でも、「この肉体が自分」っていうのも実は確固たる確証があってそう思ってるというわけではないという解釈ももしかしたらあり得るのかも、って思ってしまいます。日々刻々と変わり続ける身体。でも「自分は自分」だと主張し続ける自意識。自分を自分であると認識する自意識。自分を自分たらしめている要素。記号として捉えている自分。社会的自分。他人から認識される自分。クオリアをともなう自分感覚。それらを生み出す主観的感覚。「自意識」とか「自分」とか、そのどれもがつかめそうでつかめない、わかりそうでわからない、人類の抱える最大の謎の一つと言えます。だからこそ冒頭で紹介したような「自分とは」をテーマにした芸術作品などがたくさんあるんですよね、きっと。

なのでもしかすると仏教とかノンデュアリティ(非二元)で『無我』とか『ワンネス』と呼ばれているものがヒントになるかも知れないっていうのはなんとなく直感的に感じていました。もし「我(自分)」というものが「無」いのであれば…。もしそうであれば「自分」というものが自分自身に「わかりそうでわからない」ことの説明がちゃんとつきますよね。

じゃあ「思考」はどうでしょうか。思考もまた「自分意識」というものを成り立たせるための重要なパーツの一つだと思います。「我思うゆえに我あり」的な考える自分、ですね。特に記憶や想像や感情を伴った思考はその傾向が強くなる気がします。「思考は自分」または「思考は自分の一部」と感じることも多いかも知れません。でもね、この項では上述のとおり非二元の無我の捉え方を採用してるのでやっぱり以下のような解釈をご提案したいと思います。

もし本当に思考が自分であったり自分の一部であったりするならば、なぜ私たちは思考を思い通りに操ることを難しいと感じるのでしょうか。たとえば試しに思考を止めてみてください。「いまから10分間一切何も考えない」と自分の思考に命じてみてください。どのくらい止まりましたか?「何も考えない」ってけっこう難しい気がします。
また別のたとえばなしをするなら「自らの意思で自主的に主体的に考える内容を選んで考える」ってけっこう難しい気がします。何かを考え始める最初の瞬間をよく観察してみると実際には多くの場合「頭の中にその思考が浮かんできたから考えた」みたいな表現が的確なんではないでしょうか。そして極端な話、次の瞬間自分の頭の中にどんな思考が浮かぶのかなんて正直自分でもわからないと思うんです。たとえばいまから24時間、どんな順序で何を考えるか計画を立ててその計画の通りに思考をするなんてことは現代の一般人には難しいですよね。
仮にですよ、朝から晩までずーっと独りごと言ってたり自分のこと褒めたり他人のことけなしたり悪態ついたりとつぜん歌い出したと思ったらあらぬ妄想を始めたりとにかく目を覚まして起きてる限りノンストップでなんかブツブツ言ってる人がいたら「大丈夫かしら?」って思いますよね。でもそれって普段私たちの頭の中で起きてることなんです。つまりそれって思考が自分ではないし自分のものでもない証拠にならないでしょうか。
マインドフルネスなんかではよく「思考を観察する」なんてことをオススメしてたりします。そしてこのサイトでも「思考を観察しましょう」「思考と距離をとりましょう」ということを繰り返しオススメします。それは本当に「思考って自分じゃない」からなんです。ホント関心しちゃうくらいあなたのふりをするのがうまいんです。ちょっときつい表現なのを承知で敢えていうなら『この思考』(=「自動思考」)はあなたに気が付かれないようにあなたの思考を乗っ取るのが本当に上手なんです。
思考と距離が取れてくると自分の意思とは関係なくまったくランダムに思考が浮かび上がってくるのを目撃できるようになると思います。それは「思考は自分ではない」ことをはっきりと実感を伴って確認することができる、新鮮な驚きの瞬間だと思います。そして思考がゆっくりと収まっていくにつれて徐々に『自分』という感覚も少し軽く薄くなっていくのを感じられると思います。より頭の中の雑念が収まってよりこの自分という感覚がどんどん薄くなっていけば『無我』や『ワンネス』と言った境地にたどり着くのではと密かに思っています。

再度まとめてみると、<身体的な自分>とは社会的な経験や体験の記憶や思想や人間関係から生まれるアイデンティティーで、そしてそれらと互いに影響を及ぼしあいながら確立される精神的な自分(主観的自分)、それらの複合的で多層的な概念的産物であり、常に変化を続ける流動的な諸行無常的なもの、という風に表現することもできるんじゃないかと。先に述べた皮膚に包まれた肉体的自分。そしてカフカのグレゴリーも肉体的変化に伴い徐々に考え方や生活様式をそれに適応させていきました。<社会的な自分>とは、プロフィール的なことも含めた役割や人間関係、それらを含めた経験や体験をもとにしたアイデンティティー。たとえば以前引きこもりまくってた頃は他人とコミュニケーションしなさすぎて、自分というキャラ、自分という存在の輪郭がわからなくなっていた時期もあった気がします。社会性が薄れると社会的な自己の輪郭も薄れるということかもしれないですね。そして<精神的な自分>って、つまり記憶や思考や感情や想像を土台に自己認識される自分ということでしょうか。自分は自分と「感じる」部分。主観の主体。いわゆる自意識。考える自分、デカルト的自分。それらの肉体的自分と社会的自分、つまり対外的な外側の自分と、精神的な内側の自分という認識の複合物が相互作用しあって出来上がってるのが自分というものなんじゃないかと感じます。

ここまでがいわゆる『表層的な「自分」という意識』だと思います。門前の小僧の勝手な一考察、ということで。
「無我」とか「真我」とか「ワンネス」とか「それ」とか「愛」とか呼ばれるあたりのトピックは文章で表現するのがとても難しいと思うのでぜひまたの機会にチャレンジしてみたいと思います。

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