『真我はどうして自分を破滅させるほどの自由を
この「私」という意識に与えているのだろうか』
ということについて考察して見ました。
真我的視点からみれば森羅万象は1つで、非二元で、良いも悪いもないならば、
自他を傷つけるような行為もニュートラルな現象で「ただそうあるだけ」で、
起こるべくして起こった自然や生命の1つの現象、表れで、
避けようとしたり目を背けたりする対象ではないのかもしれない、
それゆえに自他を傷つけるような行為も起こり得るのではないかな。
雨が降ることに良いも悪いもないように。。。
生も死もただそうあるだけなのかもしれないですね。
一方、小我的視点からみれば、
全てに分離や差異があり、
分離や差異があるから比較が生まれ、
比較があるから判断が生まれ、
判断があるから善悪が、優劣が、陰陽が生まれるのだとしたら。
でももし本当に全て「人間万事塞翁が馬」なのだとしたら。
自ら死を選ぶことにも実は光の側面があるとしたら。
他人を意図的に傷つけるような行為にも実はポジティブな点があるとしたら。
そしてそのプラス面とマイナス面はいつもバランスしているとしたら。
つまり陽があれば陰が存在するし、陰があれば陽が存在する。
陽がなければ陰は存在し得ないし、陰がなければ陽は存在し得ないのだとしたら。
例えば、坂道があれば必ず上りと下りが存在するように、
そしてその上りの距離と下りの距離はいつも同じであるように。
例えば、コインがあれば必ず表と裏があるように、
そしてその表の面積と裏の面積はいつも同じであるように。
そしてそれらの表裏、上下、善悪、優劣、+ー、正邪などなどの
自分の中のアンバランスに気付いてそれらを統合していくこと、
中和していくことが、
つまり中道に至ることであり、
言い換えるなら、分離や差異を取り除いていくこと、
「差」を「取り」除いていくこと、
あるいは真我と繋がることを通して自然と「差」が「取れて」いくこと、
その結果至るのが「悟り(差取り)」なのではないかなと感じました。
というダジャレが言いたくて書いてみました。