どんな出来事も、どんな物事も、その本質はニュートラルなんです。ということについて少し。
日本語でいうと、「中立的」とか「中性的」とかでしょうか。言い換えるなら、どんな出来事も物事も全ての森羅万象はもともと優劣もなければ善悪もないし上下もないし正誤もない、そういう意味で全てはニュートラルなんですね。人間のエゴが「アレは善でコレは悪で…」ってやり始めるまでは。そーなんです。人間のエゴが人間独自の物差しで「コレは善でアレは悪で」って判断を加えるその瞬間までは、どんな物事もニュートラルで中性的で、もともと根源的にこの世には、いいも悪いもないんだと思います。
「コレは善でアレは悪で」、なんて言ってるのはこの広い世界の中で人間だけで、その良い悪いという概念を理解できるのも感じられるのもこの世界の中で人間だけなんですよね。すっごい面白いですよね。なんか哲学的になってきたw
つまり「アレは良くてコレはダメ」っていうのは常に、人間視点からの解釈なわけです。だから人間のエゴがなければ、「アレは良くてコレはダメ」って認識する人間のエゴ意識がなければ、この世の中のすべてのことはニュートラルなんです。
でもね、ほんと不思議で面白いことに、私たちがいいとか悪いとかの判断を下したその瞬間、いい側面と悪い側面のその両方を、質的にも量的にも等しく世界に存在せしめてるんです。つまり、善が存在したら悪も必然的に存在するし、悪が存在したら善も必然的に存在するんです。その逆もまた然りで、善が存在しないと悪は存在し得ないし、悪が存在しないと善は存在しないんです。コインの表が存在しなかったらコインの裏は存在しないんです。表面だけで裏面が存在しない不思議なコインとかないですよね。坂道があって、登りがあるなら、下りもあるんです。上りはあるけど下りはない不思議な坂とかないんです。たぶん。
でもね、わたしたち人間が頭の中で比較判断を下す時、その反対の極性が無意識の闇の中に落ちてしまって、さらにそのあと派生する感情に巻き込まれたりもして、顕在意識では認識できなくなってしまう。つまり、何かを「コレはいいこと」って認識すると同時に、その逆の悪いことって側面をも同時に生み出してて、ホントはその瞬間、頭の中にはいいも悪いも両方等しく存在してるんだけど、「コレはいいこと」って認識した瞬間、悪い側面が見えなくなってしまう。誰かを好きになるとその人の短所には目がいかなくなる、みたいな感じでしょうかw 逆に「あの人は悪い人」って認識したら、人情としてはその人の良い部分には目が行きにくくなったり敢えて見ようとしなかったり、なんてことはよくありますよね。
どんな坂道も人間のエゴが、「上り坂は苦しい」と解釈を加えるまでは上りも下りも全く同等の存在で特に意味は持っていませんでした。でも人間が「この坂を登るのはなんて苦しいんだ」って思った瞬間から、上り坂=ネガティブ、みたいな図式がその人の頭の中に築かれた時から、そこに強く感情を感じれば感じるほど、「これはなんて苦しい上り坂なんだ」と見上げながらネガティブに認識すればするほど、そこにある下り坂の存在が見えなくなってしまい、さらに、上り坂に関するポジティブな面も、その人の顕在意識には見えなくなってしまう。ホントは坂道って上りと下りでセットなのに。そして上り坂を登る疲れや苦しさの背後にはギフトやチャンスや恩恵が隠れているのに。でもそんなことにかかわらず、坂道はただ坂道としてそこにあるだけだし、上り坂も下り坂も全く同等の存在で、上り坂の距離と下り坂の距離はいつも同じ距離なんですね。
どんなコインも人間のエゴが、「表はあたりだからラッキー」と解釈を加えるまで裏面も表面も全く同等の存在で、ともに特に意味は持っていませんでした。でも人間が「表が出たらあたりだよ」って決めた瞬間から、表面=ポジティブ、という図式がその人の頭の中に出来上がって、
そこに強い感情や執着を感じれば感じるほど、「うわー、やったーアタリだー、表面=ラッキー」って思えば思うほど、裏面の存在が見えなくなってしまい、さらに表面に関するネガティブな点も、その人の顕在意識には見えなくなってしまう。ホントはあたりクジを引くことにも不利益やチャレンジが隠れているのに。でもそんなことにかかわらず、コインはコインとしてそこにあるだけだし、裏面も表面も全く同等の存在で、表面の面積と裏面の面積はいつも同じ面積なんですね。
つまり陰と陽はどんな時も常に、バランスを保つようにできてるんです。その法則から逃れるなんてのはそもそも不可能なんです。たぶん。+とーはいついかなる時も均衡を保つようにできています。そしてこの法則は人間関係を含めたあらゆる事柄にも当てはまります。
例えば「無責任な人」なんてのはどーでしょうか。自分の職場に「無責任でいい加減な同僚または上司」がいたとしたらどうでしょうか。率直に言って、あんまり関わり合いたくはないですよねw でもね、もー話の流れからお気付きかもしれませんが、職場のあの人が「いい加減で無責任」なおかげでこっちの仕事が増えたり、イライラさせられることが増えたり、なんてこともあるかもなんですが、もしそうであるならば「いい加減で無責任」であることには、そのネガティブに匹敵するだけのポジティブな面もあるはずなんです。例えば職場のあの人がいい加減で無責任なおかげで、チーム内のホウレンソウが活発になって、ゆえにチームワークが向上して、職場の雰囲気も改善されて、しかも自主性や自律性も向上して、クリエイティブな意見も活発に出るようになって、ゆえに仕事の効率もアップで、売上もアップ、とかね。例えばね。
中国の漢帝国を築いた始皇帝劉邦は絵に描いたようなダメ男で、自他共にそれを認めるほどの役立たずであったのにもかかわらず、そんなダメっぷりに愛嬌があったために他人が彼を放っておかず、また彼もダメ男との自覚があったがゆえに他人の助言をよく聞き部下から慕われた、だからこそ、数多くの伝説的な逸話を生み出した英傑や賢者や名臣が彼の元に集い漢王朝の礎を築くことができた、と言う中国の古い逸話は有名ですよね。長所も短所も、見方次第、捉え方次第、状況次第でいくらでもプラスにもマイナスにも転じ得るっていうことですよね。物事の本質はプラスでもマイナスでもないニュートラルだけど、それと同時に見方によってはプラスでもあり得るしマイナスでもあり得るってことですよね。
また別のたとえ話で僕個人の話でいうなら、以前商社を経営してノリノリになって鼻高々になっていた頃のことなんですが、その伸びきっていた鼻っ柱をへし折るように、詐欺事件、訴訟、信頼していたパートナーの裏切りといった出来事が相次ぎました。得意満面・有頂天でポジティブに振り切った状態だった人生の振り子のバランスを取るために、まったく逆のネガティブな出来事が連発して叩きのめされる、みたいなことがありました。実話です。人生の山と谷は交互にやってくる、みたいな話。皆さんも似たような話、どこかで聞いたことないですか?w そう、人生もやっぱり陰陽のバランスが取れるようにできてるっぽいんです。不思議ですよね。このバランスの法則はすべてのものに対して働くので、もちろん人生だけじゃなく、最悪な出来事と感じられた詐欺や訴訟や裏切りの中にも、ポジティブな側面があったんです「そんなのホントにあるのかぃ」って思いますよね。僕も最初めっちゃ思ってました。自分を騙した相手や裏切ったパートナーや訴訟の相手に非常に非常に強い怒りを抱いていたので、それが強い抵抗となってなかなかポジティブな側面を見つけることができませんでした。なので最初のディマティーニメソッドの個人セッションを受けた時は確か13時間くらいかかりました。長時間のセッションでしたが、やはり大きなネガディブな出来事の裏には質的にも量的にも釣り合うだけの大きなギフトや学びやチャンスが隠れていて、僕の場合はそれが「ディマティーニメソッド」だったんですね。詐欺や裏切りにあって打ちのめされたからこそ、鬱みたいになって引きこもって人間不信でコミュ障みたいになってそんな自分にまた自己嫌悪で、苦しくて苦しくてなんとかそこから抜け出したて。でもそれがモチベーションになってその結果、陰陽統合の技術を習得することができたんです。これに気がついた時は、全身鳥肌立ちまくりで感謝と感動の涙が20分ほど止まらず、男泣きに泣きまくった、という初ブレイクスルーの感動体験でした。
んで繰り返しになっちゃうんですが、人間のエゴというものがなければ、プラスもマイナスもないし、
善悪も優劣も尊貴も強弱も正誤もないんです。エゴというものがなければ…。ちょっとだけでいいから想像してみてほしいです。エゴが薄くなった感じ(そぅ、エゴってけっこう薄〜く軽〜くなるんですよ)。そこに無縄自縛的な苦悩や悲しみや自責や不安や恐怖は、そもそもないんだろうなぁ、って…。やばくないですか?そして、ポジティブとネガティブ、その両方が統合されたとき、この世界を満たすニュートラルな愛=無条件の愛の存在に圧倒されます。この世界は、ただ視点を変えるゲームなのかもしれないです。どんなものも、見る角度や捉え方次第で、+にもーにも見える、まさに「観自在」な世界。そしてその自在さを通して、自由と調和と無条件の愛を体現していく。そんなゲームなのかもしれないです。そしてそのゲームのルールを体系化して自己変容ツールとして使えるようにしてあるのが、ディマティーニメソッドなんです。
「観自在」ワールドへようこそ。